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ちいさな、ちいさな、みじかいお話。

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2018年3月の記事一覧

長編小説『becase』 12

長編小説『becase』 12

「……どうしてですか?」

彼女の話し方は、いくつもの事柄を負に変えてしまう力があるように感じられる。別に嫌な意味で言っている訳ではないけど、良い意味で捉えろと言う方が無理があるのかもしれない。

 照明が落とされ、湿った空気の中を煙草の煙が行き交っていた。カウンター席しかない店内で私の視界が捉えられる物なんて、カウンターの奥でシェイカーを降る若い男性と、その奥に並んだいくつもの種類のアルコール、

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長編小説『becase』 11

長編小説『becase』 11

 急に辞めるのかと言ってきた美知の表情からは、私が辞める事に対して美知はどう思っているのかという事が全く掴めない。嬉しく思っているのか、悲しく思っているのか、はたまた、その貼付けられた表情のように、私が辞めるか辞めないかなんて事はどうでもいい事なのかもしれない。ただ、どうでもいい事を普段あまり喋らない美知が自ら聞いてきたりするだろうか。

「うん、そうなの」

私の両手に抱えられている資料の束が重

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長編小説『becase』 10

長編小説『becase』 10

 以前、会社の忘年会が行われた時、私は美知の隣でお酒を飲んでいた。上司に適当にお酒を注ぎながら、ただ気持ちばかりが疲れて、通常の業務以上の仕事だと毎回思ってしまう。後輩にあたる美知なんかは私よりも疲れる事だろう。単純に私より先輩の人数が多いし、隣に座るこの私だって、きっと美知を疲れさせる原因なのだろうから。
「疲れますね」
突然そう言った美知の言葉に、私のお酒を飲む手が止まってしまった。美知はいつ

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長編小説『becase』 9

長編小説『becase』 9

 仕事を辞めた。

 お茶を入れたり、コピーをとれる人間なんて他にいくらでもいるのだろう。私が出した辞表は難なく受け入れられ、二週間も過ぎれば私がこの会社に来る事も、おそらく一生なくなるのだろう。そして私の存在なんてこの会社にあったのかなかったのかも分からないまま消えていくんだ。

 辞める事が決まっている会社での仕事は自分でも驚く程に身が入らず、私は何度もお茶をこぼしてしまったし、真っ白な面の紙

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長編小説『becase』 8

長編小説『becase』 8

 そう考えると、溜まりに溜まった彼の不満が、もう限界を迎え、そして私一人残して家を出て行った、と考える事ができる。そういった明確な理由があったなら、今彼が消えてしまった現実にもうちょっと落ち着いて対応できる事だろう。でもそうとも思えない。彼の不満が溜まりに溜まっていたとはどうも思えないのだ。人の気持ちなんてもちろん分かるはずもない。

 私にとって彼が他人である事は、もうどうしようもない現実な訳で

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長編小説『becase』 7

長編小説『becase』 7

 少し、後悔した。ラーメンを啜っている最中、彼に気持ちを寄り添わせてあげてもよかったのかもしれないって。でも、その時私は彼が言った「ご飯を食べに」というそれが口実だなんて気付く事ができなかったし、彼がそれ程までに外に出たがっていたなんて事も知らなかった。それ程までになんて言ったけど、別に彼がこの後私に対して、どれ程自分が外に出たかったのかという事を説明した訳でもなければ、不機嫌な態度を分かり易い程

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長編小説『becase』 5

長編小説『becase』 5

 彼は昨日の夜、目覚ましをセットしたのだ。いつも七時に鳴っている目覚まし時計が、九時にセットされているという事でそれは分かった。彼は間違いなく、昨日、この目覚まし時計が九時に鳴るように時間を合わせた。彼は今日、九時に起きようとしていたのだ。でも、彼の睡眠を何かが邪魔をして、九時前に起き上がった彼は突然姿を消してしまおうと思ったに違いない。どうしたって、彼が今コンビニやパチンコ店に行っているとは思え

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長編小説『becase』 4

長編小説『becase』 4

 ピッ、ピッ、っとベッドの脇に置かれた小さな目覚まし時計が音をあげる。時計はぴったり九時を指していて、この時計の目覚ましをセットするのは決まって彼だ。

「日曜日くらい目覚ましをかけるのはやめようよ」

私は彼にそう何度も言った。

「私まで目が覚めちゃう」

そう付け加えて。それでも彼が日曜日の朝に目覚ましをセットしない日が来る事はなく

「沙苗さんはなんでそんなに寝ていられるの?」

と彼は私

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長編小説『becase』 3

長編小説『becase』 3

 私は一人寂しく取り残された部屋に置かれたベッドから起き上がり、外に広がる寒さを足の先に感じながら、彼のお気に入りの湯呑みにインスタントコーヒーを入れ、それをゆっくりと口にした。

 熱い、と感じた時には、舌の皮はめくれ、じんわりとした痛みを終始感じながら、残りのコーヒーを飲みきった。ずっと前に私が彼に無断で、冷蔵庫に入っていたプリンを食べてしまった時の仕返しのように感じられた。

 彼の湯呑みで

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長編小説『becase』 2

長編小説『becase』 2

私はどこか彼に、そういった不審な点を見出した、もしくは、見抜いたのだろうか。言葉の端々に散る、彼が消えてしまう予感を感じ取ったのだろうか。でも、いくら考えてみても、彼がそう言った振る舞いをしていたとは到底思えなかった。

 私と彼はいつも通りの会話をいつも通りに取り交わしていただけで、不信な点なんて一つもないと思う。

 もしかすると、そんな直感なんてただの空砲で、しばらくすれば彼はいつものように

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