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長編小説『because』 最終回

「あー……」
自分でも驚くくらいの低い声が口から零れ、私は背にしていた家のドアを眺めた。まだ、この向こう側に彼はいるだろうか。ドアを閉めてから数分は経ってるから、もういないかもしれない。もう下へ降りてしまったかもしれない。
「うん、いない、いないんだ。きっと」
そう考えながら、私はドアを外向きに開けた。彼はいない。通路を挟んで私の住んでいる街の点々と光る明かりが見えるだけだった。
「ほらね」
私はそのまま通路に出て、視線をマンションの下へと向けた。ちょうど彼が正面の入り口を抜けて出てきた姿を見て、私は反射的に身を屈めた。
「なんでだろう」
また零れてきた独り言を聞きながらも、気付いた時には私はまた下にいる彼を眺めていて、段々と遠ざかっていく彼の存在に少しだけ焦りを感じ、足をばたつかせているのだ。どうする、どうすると心の中では私ではない、でも私である誰かがしきりにそう呟き、その声のせいで私の焦りに一層拍車がかかる。
「あの」
小さな声は、真っ暗の空に簡単に掻き消されてしまう。彼の存在が少しずつ薄まる。
「あの!」
もっと大きな声で言ったけど、それでもその声は夜空に容易く呑み込まれてしまった。
「あの!」
さっきよりももっと大きな声で言った。かろうじて届いた私の声は、彼の足を止め、私の方に振り向かせる、ただそれだけの力しか持っていない。彼は振り向き、きょろきょろと辺りを見回したあと、彼よりも随分と高いところにいる私をやっと見つけて、その曖昧な眼差しを止めた。
 間違っていたとすれば、その時、私は彼の元へ走っていかなかった事。ただそれ一つに過ぎるのかもしれない。もしあの時私が彼の元へ駆け寄っていれば、きっと何かが変わっていたのだろう。でも、私はその彼を振り向かせるだけの言葉を吐いた後に、何も言わずにそのまま自分の家に戻ってしまった。家のドアを閉めると、電気の点いていない真っ暗な部屋の中に、今さっき遠目に見た彼の眼差しが何度も蘇ってきた。

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