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「書かない」で書く、ということができるといいなぁ、なんて

「考えるな、感じろ!(Don’t think, feel!)」とは故ブルース・リーの言葉であるが、僕を含めた「ものを書く人」たちは、基本的に「考える」ことから逃れることのできない、やっかいな呪いを受けて生きている。

人間は言葉を通して考えるし、言葉なしでは考えることはできない。

「書く」という行為は、基本的に言葉を介して行われるもので、人間が発明した「言葉」は、それを通して僕たちが考え、物事に意味を付与する道具として機能している。

「考える」以前の言葉にならない、概念形成以前の「印象」ーたとえば、生まれたばかりのひな鳥がはじめて見た自分より大きな生き物と直面した瞬間とか、閉ざされた施設で生まれ育った青年がはじめて外界に出て海を目の当たりにした瞬間とか、小さな子どもが生まれてはじめてカミナリ様の音と光に直面したときとか…そういう原初の「印象」に対して、教育を通して与えられた概念や名前が覆いかぶさる。そして僕たちは物事を「理解」する。理解した、ことになっている。

ものを書く人は、それが平板な理解で終わらぬよう、あるいはその瞬間の印象をなるべくそのまま表現できるよう、言葉をつくして、さまざまな形容・修飾を駆使して、時の流れを巻き戻そうとするけれど、根本的に言語表現は、一歩遅い、のだよな。
(その分、保存ができて、射程距離が長く、また共有できることが、「書かれた言葉・文章」だからこその価値でもある、のだけれど)

書くことって、遠回りだなぁ。

ものを書く人のはしくれである僕は、時折そんなことを考える(ほらまた考えてる)。

「きっと意味なんかない。でもそれが本人にとって気持ちがいいから続けているという行為がある」

今日訪問した、鹿児島の「しょうぶ学園」でそんなことを話していた。

学園内にある工房には、何年もずーっと、ひたすら板を叩いて傷をつけている人がいたり、ひたすらに布を割いて糸をほじくり出している人がいたり…そういう人たちがごくごく自然に、何の不思議もなく、暮らして、行為している。
(それですら、集中力があるとか、根気があるとか、創造力があるとか、他の人にはない才能があるとか、外部から来た人が、ついつい手垢にまみれた表現で”意味付け”したりしてしまうことがある)
(ちなみにしょうぶ学園では、一人ひとりの利用者さんに、とにかくまず自由に、好きにやってもらう。その上で、それが結果的にアート作品になったり、少し手を加えたり枠組を添えてクラフト作品になったりすることはあるけれど、それを最初から”目的”としない。好きにやれる環境やアフォーダンスは用意する、という一般的な産業行程とはスタートとゴールを逆転させた、それゆえにプリミティブな表現が展開されている)

そういえば、僕には生後11ヶ月のムスメがいるのだけど、赤ん坊というのは本当に”意味”のない行為を反復することがある。しかもそのブームがショートスパンで入れ替わる。ごはんを一口食べるたびに、パチパチパチパチ(拍手)→バンザーイしてた時期もあれば、一口食べるたびに「違う違うそうじゃない」って感じで首をブンブン振って笑っていた時期もある。最近は、一口食べるたびに「ベッ」って舌を出して食べたものを見せてくる。きっとこれに意味なんかなくて、たまたま生み出した新しい動作が楽しかったり気持ちよかったりするからやっているんだろう。

そういえば、同じルーチンを繰り返す「常同行動」というものが、ASD(自閉症スペクトラム)のある人によく見られる特徴として現場では語られるのだけど、これもほんとは、大して意味なんてないんじゃないか。支援者の側が「彼は○○がお気に入りでこういうところに”こだわり”があって…」と解釈することがしばしばあるんだけど、周囲から”こだわり”に見える行為も、実はただそれが気持ちいいから繰り返している、だけなんじゃないかと思うことがある。

実は世の中には、言葉にして考えたり解釈したりするほどの”意味”を持たない行為や出来事というものが、たくさんあるのではなかろうか。

そして、周りの人たちが、僕たちもの書く人たちが、一生懸命に言葉を尽くしたり、文章を書いたりして、余計に事態をややこしくしていることだって、けっこうあるのかもしれない。

とはいえ、言葉を発明してしまった私たちは、言葉を通して概念をつくり、概念のフィルターにかけて世の中を意味づけて生きてしまっているわけなので、もうちょっとそれ自体はどうしようもないというか、今更捨てようにも捨てきれない、人間としての宿命だなぁ、しょうがないなぁ、と思う。諦め。

問題は、”意味”が身の丈を離れて過剰になったときだ。

そうすると、「書いてるのにやたらと苦しい」ということが起こる。

「なんかわからんけど書いてみた」
「書いて言葉にせずにはいられなかった」
「たった一人、〇〇さんのために書きたかった」
「届くかどうかはわからないけど、書き残しておきたかった」
はじまりは、そういう感覚だったかもしれないよね。僕たちが書き始めたとき。

だけど、一度書いて世に出す、publishすると、その時点で、「書かれた文章」は私だけのものではなくなるから、良くも悪くも、自分が想定していた以上の意味が、後からたくさんくっついてくる。

書いていた自分も意識していなかった面白さや魅力を、読み手が教えてくれるとき。
自分が想定していなかったような人の手に記事が渡って、思わぬ感想を送ってくれたとき。
自分のために書いて、それで終わりしようと思っていたら、「続きが読みたい」という声をもらったとき、

嬉しいな。もっと書こう、書きたいな、書いてみよう。
そういう嬉しい「誤配」に背中を押された経験は、ものを書く人の多くは共有しているのではないだろうか。

かと思えば、続けるうちに”先”が見えてきて、「書かなきゃいけない」理由がセットされて、それに引っ張られるということもある。

「フォロワーを増やさないと読んでもらえないから」
「メディアを持続させるためにはPVと広告収益が必要だから」
「他の人より早くポジション取っておいたほうが有利だから」

野心的な目的・目標をセットすることが推進力を生むこともあるだろう。

だけれど、そういう、今現在の身の丈からあまりにも遠い目的ばかりを、何のために書くのかという意味ばかりを「考えて」書くことが、書くという日常の内実を覆い尽くしてしまうと、非常に苦しい。

「書く」という行為は、考えること、意味づけることから逃れられないゆえに、もの書く人たちは、その危うさとうまくお付き合いしていかなければならないんだろう。

ごくたまに、そういう言葉の危うさと、うまく踊りながら書くことができたなということがある。
身の丈にあった文章というか、まぁ簡単にいうと、正直であるってことなんだろうな。

書かれた言葉なので当然”意味”はあるんだけど、まぁどう受け取られても、それはそれでいいかなという気持ちで手放せる。

案外そういう肩の力の抜けた文章のほうが遠くまで届いたりして、これもまたもの書く人としては困ったものなんだけど、そういうときは、嬉しいよね。てへへ。

今年は個人的には大変な一年だったのだけど、そういう文章をひとつ、ヒョローっと、放流することができました。
それがこちら。

「書かない」で書く、ということができるようになれたらなぁ、なんて思いながら、今日も書いてます。

ぼへー

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書くを学び合うコミュニティ「sentence」でアドベントカレンダーを行うことになりました。2番手です。


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鈴木悠平

文筆家/インターミディエイター® 閒-あわい-を掬って書いたり編んだりしています。 LITALICO 社長室チーフ・エディター/ウェブマガジン「アパートメント」管理人/NPO法人「soar」理事

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