書物機関銃説(再装塡版)

 書物は読者の心を血まみれにする機会をいつも、いつでも、うかがっているのです。書架に並んだあれらの書物、実は全て機関銃です。弾帯のように言葉は連なって、お行儀よく段落のなかに収まっていますが、一度ページを開けば制圧射撃の雨あられ、遮るものはありません。土嚢もなければ塹壕もない。逃げも隠れもできずに無数の言葉に撃ち抜かれ、無防備な心はすっかり穴だらけ。元の形を失ってしまうことでしょう。

 書物は待ち続けています。あなたに開かれる瞬間を。時計の針がどこを回っていようとお構いなしに、24時間、365日、いつでもあなたを待っています。ホコリをかぶって、日にやけて、たとえ背表紙が、かすれて読めなくなってしまっても、あなたが開いてくれるものと期待しています。手に取って読まれるものと信じているのです。一方的に、盲目的に、まるで初めて恋に落ちた若人のように。あなたの指先が優しくページに触れる瞬間をずっと夢見ているのです。甘美な夢です。銃身をあなたに向けて、引き金に指をかけて、振り向いてくれるまで、いつまでも、いつまでも待っていることでしょう。

 ひょっとして、あなたはお悩みですか。ええ、きっとお悩みでしょう。悩みのない人なんておりませんもの。もしも悩みがないならば、それは人ではありません。怪物です。「銀の弾丸」をご存じでしょうか。人であれ、怪物であれ、何であれ、どのような種類の問題も即座に解決するという、あの「銀の弾丸」です。悩めるあなたを一瞬で楽にしてくれる「銀の弾丸」は、なかなか見つかるものではありません。あの書架のなかのどこかに隠されているとは思うのですが、見つけだすのは骨の折れる作業です。弾雨の下をかいくぐり、一つ一つ丹念に調べて回る必要がありますからね。うっかりすると、出会っているのに、気づかずにすれ違っているかもしれません。

 いくら機関銃でありましても、人間のうつろいやすい意識を相手に、狙いを定めるのは容易なことではありません。血眼になって探したところで、悩みも、あなたも、どうしたわけか、変わってしまうのです。昨日までのあなたなら、もしかしたら、この言葉に救われたかもしれません。一昨日のあなただったら、あの言葉に癒されるかもしれません。今日のあなたにとって、一生忘れられないものになるかもしれない言葉は、明日のあなたには平凡極まりない退屈なものかもしれないのです。そうなってしまったら、それはとても悲しいことです。ページをめくる行為を事件にするため、一冊の書物は編まれているというのに。

 それにしても、言葉というやつは、まったく厄介な代物です。記述された言葉は百年経ったら別モノです。あなたが変わってしまうように、言葉も老いていくものです。字引の中にあってすら、安穏と過ごすわけには参りません。言葉の多くは読まれないかぎりはインクのシミですからね。そのまま朽ちて死んでしまいます。これは仕方のないことです。ひとつひとつの文字は記号に過ぎません。書物も読まれなければ紙の束です。暖炉にくべればよく燃える。井戸につければ水を吸う。時間が経てば、何が記されているのか分からなくなる。機関銃も手入れをしなければ、ただのかさばる鉄クズです。危険は一切ありません。

 記述された言葉は死んでいます。閉じられた書物も死んでいます。書物は双子の死であります。書架は死を直立させたまま陳列するための道具です。血に飢えた亡者を収める棺です。インテリアには向きません。湿気とホコリに弱いほか、所有者も気づかぬうちに劣化します。

 ある一時、あんなに愛した書物も、時を経て再び顔を合わせてみれば、まるで見知らぬ他人です。一度、血を吸った書物が、同じようにあなたを撃ち抜いてくれると期待するのは浅はかです。生きている時間の種類が違うのです。一言一句変わりなく言葉は静止しているのに、あなたは生きているのです。生きているということは、変わり続けることです。壊れ続けることですし、失い続けることです。かつて大切だった書物が色褪せて、本棚の片隅で忘れ去られてしまっても、それは仕方のないことでしょう。昔の恋を繰り返せないように、過ぎてしまった時間は取り戻せないように、あの言葉が与えてくれた痛みとまったく同じ痛みを味わうことは不可能なのです。

 現実に傷つけられたあなたの心に、瘡蓋を作り出すのはあなたの言葉です。正確には、あなたの意識が認識し、綴った言葉というべきでしょうか。あなたは言葉で思考します。それには痛みを伴います。泣いてしまうことでしょう。言葉にならない声をあげ、赤子のようにワンワン泣いて、疲れて、眠って、起きたら何かを考える。ここです。この瞬間、あなたは意識せず、あなたの言葉を綴っているのです。

 問題が生じるでしょう。一体、どんな言葉を綴ればよいのでしょうか。昨夜のあなたと、今朝方のあなたは少し違うのです。「今にして思えば」などと振り返ることができたらよいのでしょうが、記憶が連続しているとはいえ、これがなかなか難しい。「あれは何だったのか」などと考えてしまう。危険な兆候です。記憶を信じてはいけません。

 あなたはあなたに嘘を吐く。記憶は事実を書き換えます。事実は事実として存在していたのに、あり得たかもしれないことを、まるで実際にあったことのように作り替えてしまうのです。ありのままの事実を言葉は伝えてくれません。デフォルメされた輪郭を書き写したものにすぎないのです。

 あなたは戸惑います。言葉が見つからない。どのように考えればよいのか、見当もつかない。フラフラと寝床から立ち上がり、何を考えようとしていたのか、思い出そうとする。何かがひっかかる。とりあえず、安直に何かを「思いだした」ことにしたい。あるいはそのまま見て見ぬフリで、通り過ぎてしまいたい。どうか、安い嘘で自分を騙すのはおよしなさい。昨夜はたしかにあったのでしょう。諦めてはなりません。顔や形を忘れていても、再び会えば分かるでしょう。見つけるのです。あなたのための言葉を探しにいきましょう。

 不安でしょう。ここで「恐れることはない」などというのは詐欺師です。どうか恐れてください。不安から目を逸らさないで、睨み返してやるのです。不安は正しい筋道を照らしてくれます。あの日、あのとき、涙した理由に会いに行くのでしょう。ならば勇気に従ってはなりません。不安に従うのです。安逸よりも苦痛のほうが、信じられると思いませんか。不安は痛みを感じる直前の予兆のようなものなのです。大切なことです。数少ない真実といってもいいでしょう。一時の快楽はあなたを必ず裏切りますが、痛みはあなたを絶対に裏切りません。不安のないところに痛みはありません。もし、あったとしても、それは本物の痛みではないのです。いいですか。いまここで、身体に刻みつけてください。

 あなたが何も持たずに与えられる痛みには限度があります。あなた自身の身体に限りがあるように、あなたの言葉も有限なのです。もしも、あなたに才能があったなら、不安を身近に感じられるところまで、辿り着けるかもしれません。不安の隣人として過ごすこともできましょう。だとすれば、素晴らしい才能です。あなたはあなたが身一つで、実現できる可能性の極致に至っているといってもよいでしょう。

 しかし、それでも近付くまでがせいぜいです。あなたの身体に傷一つ、つけることはできません。道具も持たない人間が、可能なことは少ないのです。

 あなたが辿る筋道は海のように広大です。ひょっとしたら、本物の海より大きいかもしれません。宇宙といってもいいでしょう。あなたの身体は有限ですが、言葉は宇宙のように際限がないものです。水平線までの距離はおよそ五キロといいますが、言葉の地平は果てがない。まったく途方もないものです。

 舟がいります。舟とは辞書です。これも書物の一つですが、これだけは特別なものです。荒波にも負けず、嵐のなかでも悠々と突き進む、どのような苦境にも耐えられる頑強な舟。使い方によってはどこまでも、あなたを運んでくれるでしょう。不安という羅針盤の指し示す方角へ向かって、舟を進めるのです。ちょっとした航海です。心躍るものを感じませんか。

 ただし、もう決して戻ることのできない航海なのですけれども。

 準備はよろしいですね。さあ、書架の前に立ってください。いうなれば武器庫のようなものですよ。これがあなたに確実な痛みを、傷を与えてくれるものです。慎重に選んで下さい。危ないですから。整備は万全、選りすぐりの機関銃ばかりです。背表紙の厚みでおおよその総弾数を想像するのです。すでに戦争は始まっています。いいですか、選び始めるところから、もう始まっているのですよ。銃口はすべてあなたに向けられています。

 さあ、早く、最初のページを、最初の弾丸をあなたの頭に打ち込むのです。躊躇ってはいけません。勢いが大切なのです。可能ならば一息で、すべての弾を撃ち尽くしてしまうのが理想です。しかし、無理は禁物ですよ。疲れたならば休憩を挟んでもよいのです。目的を見失ってはなりません。あなたには求めていたものがあるでしょう。

 頭からポタポタと垂れては落ちる血の滴、これをインクに言葉を綴る。あなたの言葉を綴ってください。そうすれば、おそらくあなたは出会うでしょう。あなた自身の血で記された、あなたのためだけの特別な言葉に。

 ところで、これらの機関銃に装填された弾薬も、元を正せば見知らぬ誰かの血液です。呼吸を止める一撃を用意するのにも、やはり血が要るのです。傷から流れる鮮血にペン先をひたして言葉は紡がれます。記されて間もない言葉は読むにたえないものばかり。涙に濡れればにじみます。絶叫はかすれてしまって、何と書かれているのやら。不要な部分を取り除き、鋭利な形に削ります。時間を掛けて丹念に仕込みます。あなたの心に突き刺さる、あなたの心を撃ち抜く瞬間を夢見て、一行を凶器に仕上げているのです。

 毎晩、ロシアンルーレットに興じているようなものです。書物を開き、コメカミに銃口をあてていると、背筋が震えてしまいます。もし、夜が明けてしまっても、この書物が機関銃であるか、不安で仕方がありません。銃口よりも、血まみれの掌よりも、何よりも、この傷が癒えてしまうのが恐ろしいのです。祈りを込めて引き金に触れます、「どうか消えない傷をください」と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?