不壊の鳥

 ジャン・コクトーの『山師トマ』を読み終えたところから話を始めよう。トマは無邪気な嘘つきだった。だから、背後から、銃で撃たれて斃れても、自分の死すら欺く気だった。塹壕の汚泥にまみれて突っ伏して、意識の失われていく中で彼は思う。

「死んだ真似をしなけりゃ殺られてしまうぞ」
(ジャン・コクトー『山師トマ』河盛 好蔵 訳、角川文庫)

 単なる山師の少年が、有名な将軍の甥と身分を偽り、戦争に身を投じた挙げ句の果ては、死んだフリした死体であった。
 文字通り彼は自身の嘘を背負って死んだ。
 人は死ぬ。必ず死ぬ。「死」は万人に等しく約束された破局である。もしも抗う術があるなら、生を欺く他にない。

 死について、リルケは次のような文章を書いている。

「昔は、人々は自らの死を、あたかも果實がその核を持つやうに、自らの中に持つてゐることを知つてゐたものだつた——或はそれを豫覺してゐたものだつた」
(ライネル・マリア・リルケ「『マルテ・ロオリッツ・ブリッゲの手記』から」堀 辰雄 訳、青空文庫)

「死」を一体どのように認識するか。すなわち、「死」を自意識に対してどのように錯覚させるか。果実の核のような「死」はどうしたら手に入るか。
 ロックグラスに沈んだ氷の溶ける様子をじっと見つめる。次第に意識も微睡み始める。

 カウンターの上が荒野であるのなら、いまから起きるすべては幻だ。どうか酔いが覚めるまで、素敵な嘘で騙して欲しい。人生がままならぬとも、アルコールの供する夢は祈りである。この夜が明けてしまえば裏切られる。それがたとえ分かっていたにしてもだ。

 カウンター、カラスの剥製かたわらに、ロックグラスのウィスキー。チビチビ舐めているうちに、すっかり夜もふけてきた。
 ポーのカラスであったなら、ここで言葉も発しようが、このカラスは剥製であるから、決して鳴かない、喋らない。かつて屍肉や生ゴミを貪り漁ったクチバシも、空を自由に飛び回った翼も今では、堅く閉ざされ固まっている。がらんどうの胴体に詰まっているのはおが屑だ。
 つぶらな瞳はガラス球。ぶっきらぼうな表情で、何にも見てはいなかった。
 時計の針が、歩みを進める音ばかり。気分が滅入る。いつの間にやら、奥へひっこんだまま戻ってこないバーテンダーは、何をしているやら定かではない。
 話し相手に困った私は、まるで親しい友達に、相談ごとでも持ちかけるように、カラス相手に独り言する。
「カラスよカラス、聞いてくれ。帰りの道がわからない。入り組んだ路地をフラフラ歩いてきたのさ。ここが果たしてどこであったか、さっぱりわかりゃしないのだ。道順なんて覚えちゃいない。筋道、道理、分別、理性、そんなものがポケットに入っていたかと思うのだけれど、どこかで落としてしまったらしい。
 カティーサークを飲んでいるのに、心は沈む一方だ。酔いつぶれて眠ってしまえば楽だけれども、さっぱり眠くなりゃしない。飲んでも飲んでも時間はのびる。ボンヤリ霧の出てきた港に、錨を下ろした帆船だ。ランプの明かりに凪いだ海。灯台ばかりが首を振り、チラリとこちらに流し目送って、あちらの方へとそっぽ向く。
 カミもホトケもありゃしない。一人で生まれたわけでもないのに、たった一人で死んでいく。精神的なヘソの緒もずいぶん前に切れたまま、ずるずる引きずり回してきたのが、ジクジク膿んで痛むのだ。夜毎にこうして酒を飲む。涙の代わりに酒を飲む」
 不眠の夜に飲む酒は、決して身体を暖めない。体温を徐々に奪って霧散していく。夢路を辿る手がかりさえもつかめないまま、刻々とやせ細る蝋燭のように丸い氷は溶けていく。
 一本も残らずタバコは灰になった。酒も飲んだ。愛想笑いの一つもしたし、涙も流していたようだ。誰かに会ったはずなのだけれど、細切れの記憶を集めてみても、ピースがまったく足りていない。目鼻立ち、輪郭どころか、存在すらも覚束ない。かき乱された平穏は、元の通りに戻らない。境界の曖昧な意識が椅子に座って苛立っている。
 カラスの瞳に目をやると、ガラスが曇って傷だらけ。
 このカラスは何を望んでいたのだろう。
「カラスよカラス、教えておくれ」と尋ねてみても、返事があろうはずもない。
 眼窩に埋まったガラス玉、きっと生きてりゃ拾ったろうに。空腹も感じたろうし、夜には眠りを貪ったろう。小首を傾げもしたろうし、足下の景色を怯えた瞳で見下ろしたりもしただろう。がらんどうの胴体を包んだ羽毛はささやかな、しかし激しい欲望を抱いていたはずだ。一切を失ったいま、腐ることのない肉体を得たカラスは、一体何を見ているだろう。
「カラスよカラス、教えておくれ」と尋ねてみても、何にも見えてはいないのだ。
 思考は割れない卵の殻に守られ、卵黄は腐ってしまった。何も産まれない。意識は檻から抜け出せない。ここには未来も過去もない。頭蓋骨を満たしているのは現在だ。それならば、「現在」をくり貫かれてしまったカラスは、一体何で満たされているのか。
「カラスよカラス、教えておくれ」と尋ねてみても、何にも満ちてはいないのだ。
 時間のくびきを逃れた身体は眠らない。ここには昼も夜もない。電球の明かりがボンヤリ照らす店内は、いつまで経っても真夜中だ。時計の針の音ばかり、チクタクチクタク響いて止まない。前も後ろもありゃしない。この瞬間を何度も何度も繰り返している。
「カラスよカラス、教えておくれ」と尋ねてみても、何にも先にはありゃしない。
 椅子から立てば、ここから出られるのだろう。
 また、当て所なく歩き続けることになる。
 また、この椅子に座ることになる。
 また、ひとりでうめき声をあげる。
 また、また、また、また、である。
 こんな瞬間は、これが初めてではなかった。
 幾度、同じ夜を過ごしてきたか。
 幾度、ひとりで酒を飲んだか。
 幾度、タバコを灰にしたか。
 毎夜、人々は仮初めの眠りを貪る。醒める眠りは偽物だ。生まれてからたった一度、必ずおとずれる眠りのことを、「完全な眠り」と呼ぶこととして、いま求めているのは果たしてどちらであろう。「完全な眠り」は、イギリスの古いことわざにあるように、生の汚泥の一切を濯いでくれるものだろうか。
 酩酊の先には頭痛がある。頭痛の先には闇がある。闇の先には言葉がある。全てが言葉だ。他には何もない。観念すらも言葉である。しかし、文字ではない。言語化される寸前の、寸断された言葉たち。形の崩れた言葉の群れが、世界のすべてと認識される。
 言葉、言葉、言葉である。
 言葉は意味に汚されている。どんなに無意味な言葉でも、意味から決して逃れられない。
 おびただしい言葉の濁流に押し流される。自分自身の所在も定かではない。にも関わらず、流れ自体は認識している。流れているのも自分であるし、流されているのも自分である。
 形のあるものが恋しかった。この胸の、あるいは腹にも、頭にも、中身が詰まっていたはずだ。柔らかい臓腑があり、温かい血液が流れていたはずだ。生々しい欲望や、ささやかな不幸を宿していたはずだ。頭痛の他に、涙を流す理由があったはずなのだ。
 言葉、言葉、言葉である。
 生きる意味であるとか、死んだ命の価値であるとか、世迷い言の一つや二つ、つけ加えても無駄な足掻きだ。
 意味も、価値も、流れの中では一切が、焼き菓子のように崩れてしまう。
 かといって、無意味に生きて、無価値に死ぬだなんて、生きている身には不可能だ。
 意味も、価値も、墓石の下まで追いかけてくる。
 人の身に生まれてしまったからには、意味も、価値も、骨身に染みついている。
 この椅子からは逃れられない。どこへも行けない。
 この席から立ち上がれない。この身体の外側へ出られないように。意識も痛みも頭蓋骨の内側にある。私は何だ。身体の他には何もない。このまま死んでしまっても、骨の他には残るまい。ならば私は骨なのか。骨なのだろう。骨なのだ。意識も痛みも腐るだろう。
 もうすでに腐り始めているのかもしれない。酔っ払いが酔っていないと言い張るように、腐敗は自覚できない。そういうことなら合点がいく。防腐剤が不足していた。
 氷も、水も、アルコールも、腐敗を止めるのにはまだ足りない。
 だから眠れない。だから頭が痛いのだ。
 指先ひとつ動かすのも億劫だ。そのうち手も指も、区別がつかなくなってくる。眠りではない。腐敗である。穏やかなものだ。こうしている間に硬直が進行している。蛆虫がのたうち始めてからでは遅いのだ。過去にあった思い出も、未来にあったかもしれない幸福も、早く中身を掻き出して、防腐剤をつぎ足さなければならない。
 氷も、水も、アルコールも、痛みを取り除いてくれはしない。むしろ、痛みは増すだろう。崩れていく形をなんとか保つに過ぎない。それでも、このまま腐ってしまうよりはマシだった。一人より二人のほうが始末に負えないように。しこたま吐いたあとには、何も吐けないように。
 心暖まるような瞬間を思い出しては身を震わせる。かつてこの胸の内側でくすぶっていた火も消えそうだ。一人であるから耐えられる。もし二人だったら、どちらか片方の吐息ひとつで揺れるし消える。弱々しい火だ。この火に従い、血も肉も機械のように動いてきた。
 歯車が錆びた機械のように悲鳴をあげた。オイルのように涙を漏らした。たとえどんなに不便でも捨てられないし換えられない。メンテナンスもままならない。血も肉も機械のようではあるけれど、機械ではない。換えはきかない。一つしかない。
 一つしかない。一つなのだ。身も骨もたった一人に一つだけ。同じものは一つとしてない。天は二物を与えず、一本の蝋燭に火を点けた。ふざけた話だ。たった一つを後生大事に抱えて、どこへ行けばいいというのか。食べる。寝る。働く。食べる。繰り返しから逃れるために立ち止まる。一切の運動を停止する。ここから一歩も動かず、堂々巡りの思索にふけり、身も心も空っぽになるまでやり過ごす。蝋燭の火が燃え尽きるのが合図である。
「カラスよカラス、聞いてくれ。お前がカラスの剥製で、よかったと、心の底から思うのだ」
 想像してみよう。いつまでも明けない夜の底にいる。いつまでも、いつまでも、独り言を聞く。
 もしも剥製のように生きられたなら、この瞬間が果てしなく続くのだろう。
 腐らない。失うものもない。クチバシも開かなければ、鳴き声を発することもない。動き始める気配をその身に宿して、そこから一歩も動けない。
 もしここに、手に触れられる孤独があったとするならば、果たして中身はあるのだろうか。叩いてみたら、ガランドウの空洞ということはないだろうか。
 それは素敵なことだろう。しかし、もし、人の身であったなら、きっと凍えてしまう。

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