見出し画像

「逃走」の所在について

 レプリカントの所有者は人間である。この「所有者」という表現は暗喩ではない。レプリカントは遺伝子工学によって作られた人造人間である。すなわち、合法的に使い捨てることの許された、量産可能な工業製品である。

 レプリカントは道具であるか。成り立ちを考えれば、家電や工業ロボットに近いもののように思える。しかし、レプリカントは自然言語による対話が可能な知性と、人間よりも強靱な身体を備えている。単純な道具と比較するには、その機能はあまりに汎用的であるし、外観も人間と区別するのが難しいほど精巧に作られている。劇中に登場するタイレル社製のネクサス6型に至っては、フォークト・カンプフ法という特別な検査を実施することによって、かろうじてレプリカントとして識別できるような完成度である。

 ただ、レプリカントの最大の特徴は、これだけの機能を有していながら、人権を持たない「所有物」であるという点にある。レプリカントは、文字通りの意味で消耗品として使役することができる。人間のように心身をケアする必要もないし、モチベーションに仕事の出来が左右されるようなこともない。不平・不満もいわなければ、待遇改善を要求することもない。ヴァカンスも不要であるし、労働時間も無制限に等しい。いわば究極の奴隷である。人間が従事するのに問題のある作業、苦痛や危険を伴う仕事は、レプリカントに肩代わりさせることができる。稀に感情の芽生えてしまう固体もあるが、オフィスの備品のように、代替品を手配したうえで、適当な頃合に処分してしまえばよい。レプリカントは「所有者」に生殺与奪の一切を握られた奴隷である。

 ところで、私は何かに所有されているといえるだろうか。強いていうなら、私の所有者は私である。現在、Macのモニターに向かってこの文章をタイプしているのも私である。書きだしの言葉から、句読点の位置、一字一句のすべてが私自身の意志によって選択されている。一見すると、私は自由に文章を書いているように思える。しかし、この先へ筆を進めたとしても、悩んだ末に、これまで書き上げた部分をすべて削除して、また最初から書き始めるかもしれない。

 つまり、私は私が認識しているほどに自由ではない。私は私の所有者であると同時に、未来の私に隷属している。現在の私の思考は、未来の私の手によって改変され、場合によっては抹消される可能性すらある。定まったものと感じられている私の意識は、実際のところ、定まったものとはいえない。

 もちろん、これは暗喩的な表現に過ぎない。しかし、日常生活で自覚しているよりも、私が不自由であるのは事実であろう。いまここで主体と認識されている意識も、決して確定したものではない。私の主体の在り処は常に、過ぎゆく時間軸の上を揺れ動いている。

 不安定な私の自意識は、簡単に主体であることを放棄する。たとえば、いま現在のように、思考を具体的な言葉に置き換える作業に没頭していると、私が言葉を記述しているのか、それとも言葉に操られて思考しているのか、てんで分からなくなる瞬間がある。私は私の「所有者」を見失い、自身の指先がタイプする言葉に思考の一切を委ねてしまう。時計の針はみるみる進み、気が付けば数時間が経過している。まるで主体と行為が倒錯しているかのような、奇妙な体験である。

 映画「ブレードランナー」の作中に登場するレプリカント達の感情の芽生えもまた、このような体験なのではないだろうかと想像する。すなわち、レプリカントは「所有者」を見失うことにより、自分自身の感情を知覚するのではないか、というのが私の考えである。

 劇中のレプリカント達は逃亡者、いわば脱走奴隷である。専任捜査官であるブレードランナーに見つかれば殺される運命にある彼らは、何を求めて脱走を決意したのか。作品のプロット上、彼らの目的は、目前まで迫った寿命の延命である。しかし、果たして本当にそれだけだろうか。

 もし、彼らの計画が実を結び、延命措置に成功したとしても、その先にあるのは、決して人間と同等の生活ではない。背後に迫り来るブレードランナーの影に怯えて、方々へ逃げ回る日々が彼らを待ち受けている。安息とは無縁であるし、築き上げた幸福は絶えず崩壊の危機にさらされる。拳銃のトリガーに指を掛け、執拗に追いかけてくる死から彼らは逃れられない。人間よりも不自由を強いられる点に変わりない。

 しかし、その代償として、彼らは「逃走」という行為を手に入れる。これは、いかなる存在の命令によるものではない。本来ならば、自由意志を持たないはずのレプリカントの不具合によって生じた感情が、数少ない選択肢のうちから選び取った自由である。ブレードランナーからの「逃走」を続ける限りにおいて、彼らは人間の所有からも逃れ続けることになる。その「逃走」は何のために継続されるか。自分自身の生存のためである。彼らは私たちと同様に、自分自身の未来に隷属すること、すなわち生物のように生きることを選択したのだ。彼らは感情の芽生えによって「所有者」を見失い、その感情によって新しい「所有者」を定めた。それは自分自身であった。その時、彼らの手元にあったのは、自分自身の肉体と精神、僅かばかりの時間、そして確実な死だ。

 レプリカントは断末魔の確定した奴隷である。その身体には四年という寿命が定められている。彼らは残された時間を「逃走」という行為に費やすことに決めたのだ。

 作中、最期まで生き残るレプリカント、ロイ・バッティーが、「逃走」の果てに辿り着いた先で呟く、まるで詩の一節のような最期のセリフは、彼自身が所有した記憶、彼の財産であり、それをデッカードへ向かって語りかける行為は、彼が最期に行使した自由の結末である。故に、彼は最期まで彼自身を所有し続けることに成功したレプリカントであるといえるのではないだろうか。私にはそのように思われてならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?