あとがきのようなもの(「ウタノミタマ 第一宵」アフタートークのメモ)

※この文章は「ウタノミタマ 第一宵」のアフタートークのために用意したメモです。本編をご覧になったあと、お読みくだされば幸いです。

「定型幻視奇談」というタイトルについて

「定型幻視奇談」というタイトルは塚本邦雄の『定型幻視論』に由来する。これは名前だけ拝借したもので、内容との関連性はない。

『うたう百物語』との組み合わせを考慮するなら、ここは「定型幻視怪談」としたいところだが、あまり語呂がよくない。それに、内容を顧みるに「怪談」と称するには、いささか問題があるように思われ、「怪奇」の「奇」から「奇談」とした。

「奇談」は「奇談」で諸星大二郎の漫画を原作にした映画があったりするので、紛らわしい意味が生じる単語ではあるが、「精選版 日本国語大辞典」の解説には「珍しくて、ふしぎな話。珍しく興味のある話。珍談。珍説」とあるので、ギリギリセーフといったところだろうと思う。

『うたう百物語』について

百人の歌人の数多ある短歌のなかから、一首を選ぶという作業そのものが、私には途方もないもののように思われる。

ただ、その仕事の途方のなさと共に、短歌と小説を組み合わせる形式が気にかかった。

 で、短歌で百物語って何をするのか?
 怪しい短歌百首を紹介しながらその中の物語を読みといてゆく……つもりが、物語はふいに、中ではなく外からやってきました。
 短歌の前に立ったとき、背後から別の物語が、掌篇の姿でこだまを返してきたといいましょうか。
 掌篇は、短歌の背景を解釈するものではありません。ただ、短歌が呪文のようにはたらいて、奇妙な体験、想像、人から聞いた話などが呼びだされ混じり合い、五百文字ほどの文章に変えたのです。
 姿は異なれど、いずれも言葉でできている、短歌と掌篇。
 それぞれの姿による言葉と言葉が交差する場。
 百物語が、その場となりました。
(佐藤弓生『うたう百物語』 p.215 - 216)

この「あとがき」にある通り、掌篇は短歌の解釈を意図していない。

思うに『うたう百物語』の形式は、歌物語よりは連句に近い。つまり、短歌が発句として機能する。この場合、掌篇は付句に相当する。ただ、発句の配置が掌篇の後に付くという点が、この構造を見えづらいものにしている。

連句は三句で転じるものであるが、この形式では二句、歌に対して一つ付句がある状態であるから、見た目上は一対で関係性は閉じる。つまり転じない。

さらに連句的な解釈を推し進めるなら、この構造は、見えない発句(短歌)と、長句(掌篇)、発句と同一の挙句(短歌)と見なすこともできよう。この形式においては、短歌は発句であり挙句でもある。

「定型幻視奇談」ができあがるまで

十人程度の歌人を選ぶまではスムーズだったのだが、歌を選ぶ段になって難儀した。自身の優柔不断な性格や、批評的な能力の至らぬところによる部分も大きいのだが、「背後から別の物語が、掌篇の姿でこだま」を返すところまで歌を読み、そのなかから一首を選ぶという作業はなかなか骨の折れるものだった。さらに、今回は朗読会なので、声に出して読んでも違和感のないものを選ぶ必要があった。

歌を選んでから、掌篇はさほど詰まることがなく書けた。ただし、今回は事前にプロットめいた想定を定めて、本文を書き始めるようにしたのだが、どれ一つとしてプロット通りにならなかった。これは執筆の方法に由来する問題である。書き出しの文章から、リズムに合う言葉を選び、続きを接ぐように書き進めるため、事前に定めた結末に辿り着けないことが多い。もし上手い具合にまとまっている話があったなら、それは私の着想というよりは、言葉のリズムとイメージから生じたいわば恩寵のようなものだと思う。

「掌篇 + 短歌」の形式や文章のスタイルについて

この形式自体には可能性を感じる。自作の歌と掌篇の組み合わせで、しばらく書き続けてみようと思う。一冊にまとめたりする場合、おそらく「百物語」のような「場」が必要になるが、いまのところ、よいアイディアはない。

本文は、やや冗長な調子で書いた。これは、語りの口調を、なるべく自然なものにしたかったという狙いがある。タイトに調整することも可能ではある。たとえば、「不壊の鳥」なんかは全体的にタイトな調整だ。しかし、定型的な五音・七音の枠組みに当てはめると、人間の自然な口調から遠ざかってしまう。それに、冗長さは役者の芝居する余地、演技する余白にもなる。この冗長な部分は、役者の身体を通して芝居の間や緩急、声音や口調に変換されるものであるから、門外漢の私が音節まで制御・調整にまで踏み入るよりは、役者の裁量、身体に委ねてしまったほうがよいと判断した。

朗読に適した文章、声に出して読みやすい文章を考えるとき、真っ先に思いつくのは音節の境界を定型的な五音・七音に定めることだ。五音・七音の部品を分解して文章を構築すれば、句読点を気にせず書いても、さほど違和感のない仕上がりになるくらいである。音の繋がりで引っかかる箇所もなくなるし、音の組み合わせに関して頭を悩ませる必要も減る。ただし、前述のような問題もあるので、今回は定型的な五音・七音のうち、七音のリズムを多用しつつ、ところどころで音を伸ばすように調整する方法を採用した。これは都々逸(七・七・七・五)に近いが、やや冗長な調子に崩しているので、内心では「冗長都々逸チューニング」と呼んでいたりする。

ところで、文章を書くとき文節を七音の枠組みで考える習慣が私にはある。おそらく、この習慣が、演者などに「朗読向きの文章」といわれる理由なのではないかと思う。七音は学生時代に触れた俳句や連句、そして現在に至るまで作り続けている短歌を通して、私の手に染みついてしまったようである。愛着もある。七音の句を接ぐのが面白いから、短歌をやっているといってもいいかもしれないし、その手癖が散文にまで浸食してくるのが面白いから、小説を書いているのかもしれない。

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