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箴言と讒言は似ている

 愛は祈りで、小説も祈りであるなら、箴言はささやかなワガママ、欲求に対する批評である。

 箴言に深味や含意を読み取るのは、あくまで意識だ。一つの情報から、複数の意味を想定するのは、知能ではない。技術である。才能が必要であるとするならば、それはホラを吹く才能だろう。

「いいか、ここでサイコロを振ったとしよう。実はこの世に存在するサイコロの出目は、どんなものであっても二種類しかない」

「偶数? 奇数?」

「いや、出て欲しい目と、出て欲しくない目だ」

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 フロイト生まれのバタイユ育ち、エロい奴らはだいたい友達。

 個人が承認されずに過ごせた時代、などというものが、個人という概念が生じてから、一度でも、おとずれたことがあるのだろうか。

 諦めることでしか成立しないもの、それを生活と呼ぶなら、「夜の夢こそまこと」と信じることに、何のためらいもありはしない。

 自由・平等・博愛は、生者のために生まれ、大量の人を殺した理念である。ところで、どのような理念も、追求すれば虐殺に至るのではなかろうか。

 人生を短絡的に生きる他、方法がない。

 できなかった子どもの責任は取りようがない。

 フィルターを千切って吸ったタバコの本数を覚えているほど、使った避妊具の数を覚えているほど、退屈はしていない。

 避妊具の使用を挨拶に喩えるのは、コミュニケーションが頼りないものであることの証左であり、性行為がコミュニケーションである、という論理の欺瞞を暴くものである。

 恋愛は双方の同意に基づいた暴力である。

 存在確認しなければ、フォルダもファイルも作れない低水準な方法で恋をしよう。たった一つの恋を削除して、また新しいコードを書こう。

 書を捨てて町に出て、手ぶらで帰って本を読む。

 君のこと、誰も知らないから、清水の舞台から飛び降りてケガをしても、笑ってくれないよ。

 恋に落ちるのは簡単だ。狂っているフリをすれば良い。恋心を告げるのは億劫だ。狂っているフリを止めねばならない。失恋するのは難しい。フリのつもりが、本当に狂っていたのを認めねばならない。

 好きであることに理由は必要だ。問い続けることでしか、継続しない愛は存在する。その対象が、たった一人であったなら、どれほど幸福だったろう。

 自分の他に、もう一人だけ好きな人がいる。

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