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ストロベリームーン

宮仕えの際、滋子は、兄・時忠の官職が右少弁であったことにちなみ、「小弁(こべん)」という候名を用いたとされています。

滋子が仕えていた上西門院は後白河上皇の姉であった滋子の美貌を一目見た後白河上皇は、滋子を寵愛するようになります。

こうして寵愛を受けるようになった滋子は応保元年(1161年)4月、院御所・法住寺殿が完成した際、後白河上皇や後白河上皇の皇后・忻子とともに入御し、御所で暮らすようになりました。

この際、滋子は「東の御方」と呼ばれていたとされています。

しかし、もともと出仕していた女房であり、また高い身分出身の娘ではなかったため女御になることはできませんでした。

それでも後白河上皇は誰よりも滋子を寵愛していたとされ、どこへ行くにも共にしたとされています。

同年9月3日、滋子と後白河上皇との間に憲仁親王(後の高倉天皇)が誕生します。

この時、滋子は20歳。後白河上皇は35歳でした。

翌年の6月まで旅行していたとされていますが、帰って間もない6月8日、滋子は腫物が原因の病に倒れます。

その際、夫の後白河法皇は滋子の看病などを必死に行ったとされていますが、病状は悪化する一方で、 安元2年(1176年)7月8日、35歳で亡くなりました。

腫物が原因で亡くなったとされていますが、糖尿病に併発した腫物であったとも考えられています。

滋子は今宵の月を一緒にみたいと
現世で
また会いたい
ストロベリームーン
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