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第四十話

 今夜は中々客入りがいい。
 源一郎は、入り口から大広間まで、玉楼一階全体を見渡せる内所で、お吉と共に遊女や奉公人達の様子を見張る。源一郎が内所に留まり、かつて父の特等席だった火鉢の前に座るのは今日が初めてだ。

 父は、一度家出した源一郎を中々許さず、帰ってきてから暫くの間、中郎、二階廻、寝ず番、見世番と、奉公人達がする仕事全てやらされた。
 晩年は父も大分源一郎を頼るようになり、番頭を任せられていたが、父が寝たきりになっても、父のいたこの場所に座ることは心情的にできなかった。しかし今日母に、ここは楼主になったおまえの場所だ言われ、源一郎は渋渋ながらそこに座ったのだ。

「なんだかじっとここに座ってるのは心地悪いから、ちょっと廓ん中見回りしてきていいか?」
「はあ?何言ってるんだい?楼主ってのはここでどっしり構えてなきゃ駄目に決まってるだろ!あんたがそんなんじゃ奉公人達に示しがつかないだろう!!」

 母の言うことは最もだと理解している。だが源一郎はどうしても、四季の間で行われているお凛の水揚げが気になって仕方ない。その上ここ最近の心労による不食のせいか、癪の痛みまで出てきた。

(全く情けない、なんで俺はこんな弱いんだ)

 とその時、突然佐知が階段から駆け降りてくる。

「源さん、お凛が!」

 佐知の切羽詰まった声で、すぐ何があったか察し青ざめる源一郎を尻目に、お吉は呑気な声で佐知に尋ねた。

「どうしたんだいそんなに慌てて、一体何があったんだい?」
「お凛が千歳屋様を突き飛ばしました」
「なんだって!」

 佐知の返答を聞いた途端、お吉は血相を変え立ち上がり2階へ向かって走って行く。悪い予感が的中し、暫し茫然としていた源一郎もすぐ後に続こうとしたが、佐知に腕を掴まれ止められた。

「なんだ?」
「お凛はもう四季の間にはいません」
「じゃあどこに?」
「…」

 黙って首を振る佐知を見た瞬間、源一郎の脳裏に、小春の姿が見えなくなった日の記憶がまざまざと蘇える。天啓を受けるように、源一郎はすぐさま開かずの間に向かってりだした。

(俺は馬鹿だ)

 お凛のやけに冷静な様子に、ずっと抱いていた胸の違和感。気づいていながら母に言われるがまま流され、何もできなかった自分の不甲斐なさに沸々と怒りが込み上げてくる。

 開かずの間に辿り着いた源一郎が引き戸を勢いよく開けると、案の定お凛はそこにいた。どこで手にいれたのか、小さな短剣で、今まさに自らの胸を突き刺さんとするお凛に、源一郎はなりふり構わず手を伸ばし突進する。

「源さん!」

 源一郎の手から真っ赤な血が溢れ、後を追ってきた佐知が悲鳴をあげた。女の力とはいえ、急にとめることなどできない短剣の先が、源一郎の左手の甲に突き刺さったのだ。

「あ…あ…」

 自分ではない、他人の肉を突き刺した衝撃に、お凛は声にならない喘ぎ声を発したが、やがて恨みのこもった瞳で源一郎を見つめ、涙を流し言い放つ。

「なんで!なんで死なせてくれないの!!」

 お凛の言葉は、手の痛みより深く源一郎の心を抉った。

(俺は間違っているのか?死なせてやった方が、お凛のためだったのか?)
「源一郎!!」

 しかし、頭の中を駆け巡った源一郎の問いかけは、母の金切声に掻き消される。騒ぎに気づき、開かずの間の前に集まってきた野次馬達を掻き分け、必死の形相で部屋に入ってくる母の姿。

 浅はかで、貪欲で、一人息子である源一郎以外の他人に対しては、どこまでも冷酷な女。そんなお吉が、千歳屋の水揚げから逃げだし、今目の前で源一郎に怪我を負わせたお凛を、ただですませるわけがない。

「母さん頼む、お凛を許してやってくれ…」

 痛みを必死に堪え言葉をつむぐ源一郎の声を振り払い、お吉はお凛の頬を力一杯引っ叩く。

「お凛おまえ!自分が何をしたかわかってるのか!」

 お凛は力なくその場に膝をつきへたり込んだが、いつのまにやって来ていた忘八達が、お凛の両腕を抱え無理矢理立ち上がらせた。

「おまえたち!こいつを折檻部屋に連れて行きな!」
「ちょっと待ってくれ!」

 源一郎の叫びは無視され、お凛は忘八達に引き摺られるように連れていかれる。

「源一郎!大丈夫かい?ああなんてことを!」

 お凛が部屋から出ていくや、お吉はすぐさま源一郎に駆け寄り、泣きそうな声で、はやく医者を呼んどくれ!と叫び続ける。源一郎は、まずは半狂乱になっている母を落ちつかせようと、大丈夫だと言いながら手の甲に刺さった短剣を抜き、小袖の袂で血を拭った。

 だが傷は思ったより深く、それまで耐えられていた痛みが、手の甲から体全体を侵食するように広がっていく。額から油汗が滲み、これしきのことと叱咤する心を嘲笑うように意識が遠のきそうになる。

(だめだだめだ!今俺が倒れるわけにはいかない!一刻も早く母を説得してお凛を助けなくては…)

 源一郎がはっきりと自分の思考を自覚できたのは、そこまでだった。



『源ちゃん、一つだけお願いがあるの』

 これは、夢だろうか?
 目の前にいるのはあの日と同じ、可憐で儚げな美しさをもつ少女、小春の姿。忘れようとしても決して忘れることのできない、身を切る程に辛い記憶。 

 水揚げの前日、源一郎の着物の袖を華奢な指でギュッと握りしめ、小春は意を決っするように、薄く色付いた唇を開き懇願した。
 客に抱かれる前に源一郎と結ばれたいと、一度だけでいいからと、涙で潤んだ真剣な瞳でそう言った後、小春は源一郎の胸に顔をうずめた。

 幼い頃から両親に言い聞かせられていた、将来楼主になる人間が、商品である遊女に手を出すのはご法度。だが、源一郎が小春の処女を奪わなかったのはそんな理由ではない。
 小春だからできなかった。好いていたから、自分にとって、誰よりも特別な女だったから、今抱いてしまったらきっと、他の男に渡したくなくなる。

 でもそれすら、自分を正当化したただの言い訳。結局源一郎には、好いた女を攫って逃げる度胸も覚悟もなかったのだ。独占したくなる自分を恐れたという事は、小春を、人ではなく商品として見ていたかったという事。

 源一郎も、所詮はお吉や虎吉と同じ、女を売り買いする非人。だから、これ以上小春に執着し、自分が傷つくことを恐れ残酷に突き放した。

『源ちゃんは優しいね』

 触れるだけの口づけをして身体を離した源一郎に、小春は微笑みそう言った。あれはどういう意味だったのか、もう二度と聞くことはできない。

 小春は次の日自殺した。開かずの間で首を括り、その遺体は弔われることなく、投げ込み寺へ葬られた。

(小春…)
 


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