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第三十一話

 あの人は、幻だったのだろうか?誰にも必要とされず、一人泣いていた自分が自ら作り出した夢。そう思うには、すべての思い出が生々しく、初めて触れられた身体の芯は、会えない痛みとともに甘い痺れを持って疼きだす。会いたい。もう一度名前を呼んで、夢などではないと笑ってほしい… 



(今日もこなかった…)

 内庭へ続く廊下を一人トボトボと歩きながら、梅は泣き出してしまいそうになるのを必死にこらえる。あかずの間へ行き、海と過ごした時間を思い出し、どんなに待っても海が現れない現実に絶望し、そんな毎日を、海と出会ったあの日から、もう一月近くずっと繰り返してきた。

 (このまま二度と会えないなんて絶対に嫌だ。海はきっとまた会いに来てくれる。あの綺麗な顔で、ごめんて笑いながら優しく抱きしめてくれる)

 幻であったはずなどないのだ。梅の肌に花弁のように色づいた海の痕跡は、今や跡形もなくなってしまったが、海の存在は梅の心に深く刻み込まれ決して消えることはない。

「かい…」
「梅」
「!」

 内庭を眺めながら、口をつくように海の名前を呟いた瞬間、突然後ろから源一郎に声をかけられ、梅は驚き振り返る。

「びっくりした、源兄ちゃん何?」

 そこには源一郎が、今にも怒鳴りださんばかりの表情を浮かべ、梅を見つめていた。

「お前、俺に何か隠してないか?」

 続く源一郎の言葉に、梅の顔は一気に青ざめ、心臓の鼓動はまくしたてるように早くなる。

「…え?」
(どうしよう。まさか海の事を知られてしまったのかな)

 新造出しを終えた日、梅とお凛は、佐知とお吉に、今後の心得を厳しく言って聞かされた。中でも、客をとっていない新造が間夫を作れば、相手の男は一生出入り禁止になり、女には厳しい折檻が待っているという言葉は梅を震えあがらせた。梅が恐れたのは折檻ではない。海の存在が玉楼に知られ、海に一生会えなくなることだ。

「佐知がな、お前の様子がおかしいってずっと言っててな。まさかとは思うんだが、お前に間夫ができたんじゃないかって」
「…間夫ってそんな…だって、私は、まだ客もとってないし…」
 
 悪い予感が的中し、なんとか言い訳を試みるも、動揺して声が途切れ途切れになってしまう。源一郎は、そんな梅を鋭い視線で睨んだまま核心をついてきた。

「俺もそう思ってたんだがな、胡蝶がいなくなった時、廓内がかなり混乱してただろう?その時が怪しいんじゃないかと佐知は言ってる」
「…」

 佐知の勘の鋭さに梅は瞠目したが、海の存在までは知られていないことがわかり、梅は心持ち落ち着きを取り戻し首を振って否定する。

「間夫なんていないよ」
「じゃあ何で毎日そんな腑抜けた面してんだよ?昔は花魁になるって息巻いてたのに、最近は踊りの稽古にも身が入ってないらしいじゃねーか!
お前、佳乃花魁の言葉忘れたのか?あの人は、特に抜きん出ていたわけじゃないお前を、引っ込み禿にするように勧めるほど買ってたんだぞ!佳乃花魁に帯をもらった時のことも忘れちまったのか!」

 源一郎の剣幕で、梅は、佳乃が昔自分にしてくれていたことを今更のように思い出し、居た堪れない気持ちになる。

「…」
「黙ってんじゃねーよ!お前はここの遊女なんだ!これからしっかり働いて稼がなきゃなんねーってのに、お凛といいお前といい何で…」
「え?」

 だが、そこに突然お凛の名前が出てきて、梅は思わず声を上げた。

「お凛ちゃんがどうかしたの?」
「…」

 気になって尋ねる梅に、源一郎は苦虫を噛み潰したような顔をして首を振るだけで何も答えようとはしない。

「いいか、おまえ達には引っ込みとして玉楼も大枚はたいてきたんだ!もし相手の男がわかったら、身ぐるみ剥がしてここから追い出して、おまえには死ぬまで働いてもらうからな!わかったらとっとと夜見世の準備をしろ!」
「はい…」

 海のことを知られる恐怖に慄きながらも、梅は絞り出すように返事をする。源一郎は眉間に皺を寄せたまま盛大にため息をつき、梅に背中を向け立ちさろうとしたが、突然思い出したように立ち止まり梅の方を振り返ると、怒気のこもった口調のまま言い放った。

「あとお前の水揚げと突き出し、高野屋の御隠居様がしてくれることになったから」
「え?」
「本当はおまえではなくお凛を御所望だったんだが色々あってな。いいか?高野屋の御隠居様はこの見世がずっと世話になってる上客だ!お前には身にあまる光栄だってことをよく肝に銘じとけ!」

 それだけ言うと、源一郎は、今度こそ振り返らずに梅の元から立ち去っていった。











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