逃げの選択

思い返すと、僕はこれまで「こうはなりたくない」「これはしたくない」という判断基準でいろいろな分かれ道を進んできた気がしている。

中学の時に初めて教師になりたいと思ったのもこれまでに出会ったひどい教師たちのようになりたくなくて、せめて自分だけでもいい教師になっていい学校生活を送れる子を増やしたいと考えたからだし、(傲慢)
言葉で人に自分の思いや考えをしっかりと伝えるように心掛けているのも「ありがとう」や「ごめんなさい」が言えず、家族に黙って多額の借金をしてしまうような父の姿を見て来たからなのかもしれないと感じる。その借金は一体だれが返済するんだろうか。

ただ最近はこういう負の感情による推進力に限界を感じてきていて、はっきりとした理由で自分の選択をしてきた人に劣等感を感じるようになった。

僕がしてきた「こうはなりたくないから」という理由の選択は、例えば肉と魚のどっちを食べるとか、そういう限られた選択の中の話なら有効に使えるかもしれないけれど、無限に広がる選択肢を目の前にした時に、どうしても消去法じゃ選びきれないのだと感じてしまった。

反対に、「自分はこれがしたい」とか、「自分はこういう人間になりたい」ってはっきりとした理由を持って選択をする人は、その選択に対しての覚悟や責任の重さが違うと感じるし、そこからぶれない芯の強さも感じる。


これまでの生活の中で、「自分の夢をかなえる」とか、「世界で活躍できる力を付ける」って言葉たちを耳にタコができるくらい聞いてきたけど、正直僕はそんなことどうだってよくて、これからの自分の人生は信用できる人が近くにいて、おいしいものを食べながら野球を見たり、音楽に触れたりできればそれでいいと感じているため、僕にははっきりとした「やりたいこと」がない。
バイト先で高校生に「自分の興味のあることを全力で頑張ろう」と言っておきながら当の本人がこの有様なのは誠に情けない話である。

ある意味「こうはなりたくない」の選択は逃げの選択なのだとも思う。「生きるための逃げならありあり」という言葉は僕の座右の銘の一つなのだが、その一方でどこかで逃げずに考えて自分で答えを出さなきゃいけないとも考えている。(そんなことを昨日父が弟に怒鳴ってた。たぶん根本的に父とは考え方が違う)

そんなことを最近は毎日考えているのだけれど、一向に答えが出ずにずっと悩んでいる。そして一日の終わりには「考え疲れたから寝る」と明日を健やかに「生きるための逃げ」として自分を正当化して一日を終えている。結局何が書きたいのかよく分からなくなっちゃったけど、好き勝手書くのが僕のnoteのコンセプトだし、疲れたのでここで終わり。また明日考える。