lunch34_奥村和正さん

自分が何屋さんなのか言えなくても、スキーへの恩返しがしたい Lunch#34 奥村和正さん

奥村さんは、青山学院大学の法学部の出身です。

現在は、スキーを含めた、いろいろな運動の
トレーナー・インストラクターとして活動されています。

経歴だけ並べると、華麗な飛躍があるようにも見えますが、
一歩ずつ、試行錯誤の中で、足を進めていった結果、
振り返るとこんな軌跡を描いていました。

そんな奥村さんのポイントはこちらです。
・スキーにはまった4年間
・社会の一員
・お前は何屋さんなの?

1つ目は、スキーにはまった4年間、です。

奥村さんは、大学は法学部に進学しました。

というのも、ちょうど進路を決める高校生の時に、
平均視聴率30%を超える化け物ドラマが放映されました。

木村拓哉さん主演の「HERO」です。
当時は、エイプのダウンジャケットを着ている検事!!
なんて話題になったのを覚えています。

このドラマを見て、法曹界に進もうと決意した奥村さん。
1年浪人して、大学へと進学しました。

そんな奥村さんでしたが、
大学の記念すべき1つ目の授業「憲法」で、
意味がわからなさすぎて挫折したのでした。

奥村さん自身も、そこまで将来の夢がずっとなかったところに、
格好いい!と思って決めた進路だったから、
そこまでの情熱を継続できなかったのかも。

と振り返ってもいました。


そういうこともあって、大学入学してすぐ、
授業への、法曹界への、興味を失ってしまい。

かといって、同級生のほとんどは、1年先輩になってしまっていて、
所属するコミュニティが見つからない。

そんな状態の奥村さんに、スキーサークルの勧誘が来てくれました。

なんとなく楽しそうというイメージと、
勧誘してくれた先輩が可愛かったという不純な動機で、
スキーサークルに所属することとなりました。

スキーサークルに所属して最初のシーズン。
奥村さんは、2日目くらいにパラレルができるようになりました。

人生で2度目のスキーで、周りから褒めてもらえたことが、
奥村さんの中で強い自信となりました。
(1度目は、高校生の時に友達と行ったスキー旅行でした。)

もっと上手くなりたいの一心で、スキーにのめり込んでいきます。

ここでいうスキーという言葉ですが、
正確には、「基礎スキー」という種目のことを指します。

この種目、日本独自のスポーツ競技で、
スキーを滑る技術の正確性などを採点するものです。

この基礎スキーの大会の最高峰が、
社会人選手が参加する、全日本スキー技術選手権大会、(通称、技術選)というもので、それ以外に、学生の全国大会、全国学生岩岳スキー大会(通称、岩岳)。

さらに、各地方の大会や学生の大会など様々な大会があります。

奥村さんの大学でも、学内の複数のスキーサークル合同で大会を開いていました。
他にも、複数の大学のスキーサークルが集まって大会を開いてもいました。

奥村さんは、学内と学外の大会、
さらに2年生の時からは、全国学生岩岳スキー大会にも参加しました。

とにかくスキーにどっぷりハマった4年間でした。

そして、4年間の学生生活の最後のシーズンで、
学内の大会で、種目別での優勝、さらに、総合優勝を果たしました。

全国学生岩岳スキー大会でも、
1つの目標とされている、トップ50、いわゆるトップシードに入ります。
(ちなみに、参加者が1000人規模の大会です。)

スキーでは確かな成績を残した奥村さんでしたが、
その一方で、卒業後の進路については、大きく悩んでいました。

大学生活の全てをスキーに捧げてきて、
今さら、やりたいことや目標を聞かれても、
スキーをしたいしか出てこなかった。

その上で、会社に入って仕事をして稼ぐことと、
好きなことをしながら、アルバイトで稼ぐことの違いもよくわからず。

さらに、みんな一緒に就職活動しなきゃダメ、っていうのが
どうしても納得できなかった。

みんなが同じ方向に、ずっと進んでいくのって、
一体なんなんだろうって疑問に感じてしまったのです。

それでも、就活をしなければ、と思い、
なんとか内定を手にしていました。
4年生の春頃でした。

内定を手に入れた数ヶ月後、4年生の夏に奥村さんに異変が。

熱中症のような感じで、体調不良を引き起こした後、
胃の不快感が取れなくなってしまったのです。

胃が、ずっと、きもち、わるい。
それが何ヶ月も続きます。

おかしいと思って、いろいろな病院に行き、様々な検査をしてもらい、
果てには、ペースメーカーをつけてみたりもするのですが、治らない。

ただ、ただ、胃が、きもち、わるい。

そして、その症状は、胃だけにとどまらず、
精神的なものにまで影響を及ぼします。

閉鎖的空間がダメになってしまいます。
例えば、満員電車が乗れなかったり、と。

あとは、ここにこの時間にいなきゃいけない、
っていうことが、どうしてもきもち悪くてできなかったり。
集団行動がどうしても取れなかったり。

パニック障害のような状態ですね。

いつ、この状態になるか、わからなくて、
日常生活が怖くて仕方ない状態です。

こんな状態では、サラリーマンなんてできないんじゃ?

そう考え、悩み、それでも働いたほうがいいんだ、
って自分に言い聞かせながら。

スキーの大会中も、滑っている一瞬だけは、忘れられるのですが、
それ以外の時間はどうしてもきもち悪くなる。

とにかくどうしたら、楽になるのかわからずに、
足掻き続けていました。

そして、もうどうしたって、こんな状況じゃ働けない、
そう考えた奥村さんは、3月30日に、
内定先の会社を訪れ、人事部長に内定辞退を申し入れます。

ギリギリまで悩んだ、本気で考えた結果でしたが、もちろん内定先の会社は激怒。
1時間以上にわたって、説教をされてしまいました。

スキーでは、華々しい成績を残しながらも、
謎の体調不良に悩まされ、就職を諦めた。

浮き沈みの激しい、学生生活最後の1年でした。


2つ目は、社会の一員、です。


内定を辞退して、大学を卒業した奥村さん、
徐々に体調は回復していきました。

やることはスキーしかありません。

と言っても、冬にしかスキーはできないので、
夏の間は、フリーターとしてスキー資金を貯めます。

生活としては、夏の間にフリーター生活
冬になると、スキー場で、スキーのインストラクターをしながら、
それ以外の時間を自分のトレーニングにあてます。

この時の目標が、全日本スキー技術選手権大会(通称、技術選)。
この大会に出場するには、各都道府県での選考会を勝ち抜いて、
代表に選ばれる必要がありました。

しかし、大学を卒業して、2年連続で技術選に出場できず、
何かを変えなければと思い、スキーをする時間を増やします。

その方法は、冬以外にもスキーをすることでした。
そして、それが、トレーニング器具やVRを使うわけでもなく、
海外に行くわけでもなく、可能なのです。

それを可能にしてくれたのが、山形の月山にあるスキー場でした。

この月山のスキー場は、およそ7月ごろまで開いています。
それまで雪が降るわけではなく、冬に降りすぎた雪が残っているのです。

どれくらい降りすぎるのかというと、
冬の間はスキー場がオープンできないほど降っています。

リフトも、スキー場への道も、何もかもが雪に埋もれてしまい、
スキー場としてオープンできるのは、
雪が解けて、丁度いい量になる春以降なのです。

ここから、スキー漬けの生活が始まります。
4月から6月に月山のリフト会社で働きながらトレーニング。
7月から10月までは、東京に戻ってきて、アルバイト生活。
11月から3月まで、スキー場でインストラクターをしながらトレーニング。

1年のうち200日間、スキーをする。
さらに、夏のアルバイト期間中も、
パーソナルトレーナーと一緒に、体つくりに励みます。

その甲斐もあって、大学卒業後から数えて4回目のチャレンジで、
ついに全日本大会への出場を果たします。

残念ながら、初めての全日本大会で、
大きな成績を残すことはなかったのですが、
確かな自信につながったシーズンでもありました。

ここからの目標は、全日本の上位に入って、
デモンストレーターという肩書きを手に入れること。
この肩書きを手に入れれば、指導者の指導ができることになり、
仕事の幅が広がることとなります。

そのためにも、この肩書きを手に入れようと躍起になっていきました。

デモンストレーターを目指して、トレーニングを続けていた、
28歳のシーズンの時でした。

奥村さんは、県予選の競技中に転倒をしてしまいます。
それと同時に手首を痛めながらも、テーピングをして競技を続けます。

転倒したぶんの失点もなんとかリカバリーして、県予選突破を決めます。

そのまま、全国大会へと進出。
手首の捻挫はなかなか良くならず、ガチガチにテーピングした状態で、
全国大会を戦うのですが、結果はふるわず。

上位へと進むことはできませんでした。

そして、シーズン終了。
春になって残ったのは、手首の痛みだけでした。

さすがにおかしいと思い、病院に行くと、
捻挫ではなく骨折でした。

結果的に、手術が必要となり、入院することとなりました。

この時にかかった費用が、40万円。
ちなみに、保険適用前だと120万円もの金額だったとか。

そして、この大きな出費を前に、衝撃を受けていたところ、
奥村さんがさらに衝撃を受けることがありました。

それは、国保の還付制度でした。
医療費がかかりすぎた場合は、そのうちの一部を変換するという制度。

奥村さんが支払った医療費のほとんどが返ってきたのです。

この制度を利用した時に、奥村さんは当たり前のことに気づきます。
自分が社会の一員であったことに。


考えてみれば、パニック障害や胃の不快感から、
大学4年生の3月30日に人事部長にこっぴどく怒られた後は、

まるで社会から放り出されたような感覚だったとか。

みんなが進んで行く企業勤めという道を選ばずに、
社会からのはみ出し者のように、スキーにのめり込んでいった。

自分は真っ当な社会からは外れた人間だから、と。
社会の外側で生きているような、そんな感覚だった。

だったのに。
自分は社会制度に救われたんだと。

いろんな人が払ってくれた税金によって、
自分の医療費が払われたんだと。

自分も社会の一員だったんだと気づきました。


最後は、お前は何屋さんなの?です。


奥村さんは目が覚めました。
そして、色々と考えるようになりました。

スキーを続けた先のこと、
もしデモンストレーターになれたときのこと、
そして、自分と社会との関係のこと。


ちなみに、この基礎スキーという競技のトッププレーヤーを見てみると、
ほとんどが北海道・甲信越地方などの雪国出身で、
小さな時からスキーに慣れ親しんでいる選手が多いのだとか、
アルペンスキーで活躍していた選手が転向してくることもあるとか。

つまり、生まれ育った環境によって、
経験値が決定されやすい競技なのです。

神奈川出身で、大学からスキーを始めた奥村さんが、
全日本にまでたどり着いたことも、ものすごいことなのですが、
それ以上に高い壁が、全日本のトップと、それ以下との間にはあるのです。

そして、このトップスキーヤーたちがどういう生活をしているのかというと、
夏の間は、別の仕事をしていて、冬になるとスキーインストラクター。
たとえば、夏には、農業をしたり、宿泊施設を経営していたり、
でも、雪が降って仕事ができなくなると、雪山に入って、インストラクターになる。

当時の奥村さんと、ほとんど変わらない生活をしていたのです。

デモンストレーターになることは、かなり難しい。
そして、なった後も、この生活が大きく変わることがない。


もっと言えば、基礎スキーの競技人口や、
そこでレッスンに習いに来る人たちの数を考えた時、

とても小さなパイを取り合っているだけだと。

そして、そのパイの行き先のほとんどが既に決まっていて、
自分のところにはあまり来ないだろう。

そう冷静に自分を見つめていきます。

トップスキーヤーの素晴らしさは変わらない。
いや、そもそも、素晴らしいからこそ、
自分はこの基礎スキー界の内側で勝負するのは厳しいに違いない。

じゃあ、もっと外側で活動できるようになった方がいいのでは、
そう考え始めました。

そして、去シーズンに初めて大会に出場しないで、
その代わりに、発信に力を入れていきます。

メルマガ・オンラインサロン・Youtube・SNS

いろいろなところでスキーの技術だけでなく、
運動の面白さを伝える活動を始めていったのです。

そのために、必要な考え方や知識を取得しようと
今まで以上に積極的に本を読むようになり、
さらに、動画編集技術の講座を受けたり、
積極的に、スキー以外の学びを始めます。


そんな様子を見た、かつてのスキープレーヤー仲間からは、
こんな言葉をかけられます。

「お前、何屋さんなの?」
「いま、何してんの?」
「なんでスキーやらないの?」

そして、その言葉に、なんと返したらいいかわからないそうです。


でも、奥村さんの思いはとてもシンプルなのです。

辛いときを、スキーに打ち込むことで乗り越えた。
スキーがあって、いろいろな人に出会えた。

そんな感謝の思いは強く、
だからこそ、スキーへ恩返しをしたい。

デモンストレーターになれないならば、
逆に外側のスキーに触れ合って来なかった人に広める活動をしたい。

そして、何よりも、スキープレーヤーとしてだけでなく、
この社会の一員として、この社会に貢献したい、還元したい。

そんな思いを持って活動をしています。


具体的には、スキーのインストラクターだけでなく、
発達障害の子に、運動の楽しさを教えたり、
お年寄りの介護に運動を取り入れたり。

さらに、将来的な1つの目標としては、
スキーに触れたことがない子どもたちを
スキー場に連れて行く活動をしたい。

そんなことも教えてくれました。

本当に色々なんです。
何屋さんとかでくくれないです。


でも、思いはシンプルです。
スキーへの恩返しをしたい。
社会に貢献したい。

それだけ。
格好いいです。

2018.12.11 新宿にて
奥村和正さん


「みんな、素敵でおもしろい」Lunch以外にも、いろいろなプロジェクトが進行中です。詳しくは、SUGOIのフェイスブックページをご覧ください。



ここまで読んでいただきありがとうございます。 この世界のどこかにこうして私の文書を読んでくれている人がいる。それだけで、とても幸せです。 サポートしていただいたお金は、また別の形で素敵な人へのサポートとなるような、そんな素敵なつながりを産んで行きたいです。