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セクシュアリティと多様性

最近の世の中では「多様性」という単語をよく聞く。また、〇〇セクシュアルという好きのあり方も多方面に表現されているなぁと感じる。
私自身、自分の人生は自分の好きに生きたらいいと思ってるので、本当にいい傾向だと思う。

ただ、多様性って、基準があってのもので、何かしらの「普通」が存在しているからこそあるのではないか?とも思う。その普通がなくならない限り多様性は多様性ではない。

例えば、私は1ミリも結婚する気がない。
強いて言うなら、契約上、お互い利害の一致するお相手がいるのであれば書面上結婚してもいいのかなと思える(何かあった時の保証人とか)が、誰かと恋愛をしてそのまま結婚して〜という流れになることはないだろうと言える。仮に結婚したとしても自分の時間を脅かされなくないので、別居がいいと思う。隣のマンションくらいがなんかあった時に助け合えるちょうど良い距離感かもしれない。

これを誰かに言うと、「まだ良い人に出逢ってないだけ」「いつか結婚したいって思える人が現れるよ」と言われるであろう。実際も何度も、耳が痛いほど言われてきた。ただ、ここで大事なことを言うと、この人生で彼氏がいたことがないわけではないし、誰かとデートしたことがないとかでもない。付き合った上で、好きにならなかったわけである。

これを世間では「アセクシャル」と定義するらしいが、わたしは別に何者にも恋愛感情を抱かないかと言われたらそうではないのかもしれない。というのも、6年ほど前から二次元に大好きな人が1人いるし、最近三次元アイドルにも好きな人ができた。所謂『推し』というものなのかもしれないが、私は【同担拒否】なので、好きな人を文字通り「推し出して」いるところが一切ないという意味では推しではないとも思う。どこかに属させるとしたらフィクトセクシュアルが近いのかもしれない。

そもそも、アセクシャルは「人間同士愛し合うのが当たり前」「人は人に必ずしも恋をする」という定義のもと、「恋愛的な意味で好きにならない」セクシュアリティというものになる。そもそも人間同士愛し合うのが当たり前なのだろうか?

LGBT+である同性同士の恋愛においても、それを【多様性】と表現するにあたって、『異性愛』が当たり前という定義があって成り立っているものだと思っている。異性愛が当たり前だから世間からかつて異常とされていた同性愛は「いろんな人がいるんだよ多様性だよ〜」となるわけだ。多様性を主張する側も、人間同士の異性愛が当たり前と思っている節があるからこそそういう主張があるのではないだろうか?

これは完全に個人の意見なので、だからといって何かがあるわけでもない。多様性ってなんだろうね〜って話。

だけど、「多様性だからこんなセクシュアリティがあります!認めてください!」って言い回ってる活動家さんを見ると少し首を傾げてしまう部分はある。だって、いろいろあるよね〜が多様性なのに、こんなのがある理解しろ!って押し付けてしまったら、もう多様性ではないわけだから。自分は自分でいいし、ある意味好きの形なんて100人中99人違う。稀に1人くらい似た考えの人がいるけど、違う部分ではたぶん違う考えだから、価値観が合う人間なんていない。だから価値観なんて合わせるんじゃなくて認め合うことが大事なんだろうなとは思うけど、そう上手くいかないのが人間だから余計に面白かったりもする。

人間って難しいね。

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