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きょうのご機嫌いかが

一ヶ月半ぶりに生理がきた。この半年はおおむね順調だったから、こないは来ないで不安になってしまう。
私はピルを飲んで月経コントロールをしていないから、いまだ生理周期が不安定。 ピルは保険適用外だし、なによりズボラな私が1日2回、きちんと服用できる自信がなく何となく避けている。 でも飲んだらこんな風に病気の心配も、月経痛も月経の量も少なくなるのなら処方してもらうのもいいのだろうか。
ぐるぐる考えながら行動せずに気付けば、アラサーになってしまった。

今も腰が痛くて痛くて仕方がない。 座っていても、立っていても、横になっても辛い。腰を温めれば、いくぶんか痛みが和らぐのを分かっているのに、この暑さで毛布に包まる気にはとてもなれなかった。痛み止めを飲むために昨夜の残り物の餃子を温め直すこともしないで、口に放り込んだ。 はやく薬が効きますようにと、布団の上でタオルケットを抱きしめる。
ここ数日、寝ても寝ても、眠かったのは生理の予兆だったのかもしれない。生理がきたと自覚すると無性に甘いものが食べたくなる。元気になったらフルーツとクリームがたっぷり乗ったそびえ立つようなパフェが食べたい。



本日のご機嫌は低空飛行。
不安定な天気とキッチンの蛍光灯が切れたのが原因だ。
シンク上の蛍光灯が切れたので、ガスコンロの換気扇についているわずかな明かりでなんとか凌いだ。けれど、窓に面していないキッチンは、片方の電気が付かないだけで真っ暗に感じられどこか落ち着かなかった。
苦手な洗いものがますます憂鬱になる。

食器洗いの時間は今のところ私の中で、人生における無駄時間ワースト1位を独走している。
食器を洗うことで得られる良いことなど何もない、と思っているから。
むしろ手荒れだったり、水道代がかさんだりでネガティブなことばかりだと感じてしまう。洗いものの無駄さについて話し始めるとつい熱が入ってしまうのはなぜだろう。
普段は割と温厚な性格だと自負しているのに。
この話題だけは前のめりになってしまう。

今のところ我が家には食器洗い機はないので、将来誰かと、あるいは1人で暮らすとしたら絶対に食洗機を導入すると決めている。
そのために一緒に暮らす人には食洗機の素晴らしさをプレゼンする意気込みも出来ている。
食器洗いの時間がなくなったら、好きな映画を見たり、食後の紅茶をいれたりする時間が早く訪れるようになる。好きな人とソファに肩を寄せ合って、今日の出来事をシェアする時間も増える。

明日は蛍光灯を買いに行こう。



キッチンの蛍光灯は結局買いに行かずに、天井についている電灯でしのいだ。 もう何年もこのスイッチをオンにしていなかったから天井に明かりがあることさえも忘れていた。 LEDの冷めるような白い明かりじゃなくて、古本の黄ばんだようなぼんやりとした明かり。 これでも真っ暗闇の中、キャベツをちぎったり、人参を切ったりするよりはずっと良い。

今日は思い切り野菜を食べたくて、野菜を食べるスープを作った。 キャベツをほぼひと玉。人参を3本。私の拳より大きい玉ねぎを1個。エリンギを2パック。 オリーブオイルで野菜を軽く炒め、玉ねぎが半透明になったら気分でバターをたっぷりひとかけ。お鍋いっぱいにあった野菜たちがしなしなになり、野菜に火が通ったときの甘い匂いがキッチンを満たすと、もうすぐにでも食べたくなってしまう。つまみ食い欲をぐっと堪え、野菜が浸るくらいのお水を入れてコトコト煮る。 アク取りをしてからコンソメの素2個とローリエを1枚入れる。カレーでもシチューでも、野菜を煮込むときにローリエを入れるのは美味しくなりますように、おまじないのようだ。

母が入れている謎の葉っぱ。月桂樹。ローリエ。

入れなかった時と入れた時のカレーの味に、自分が知覚できるほどの違いがあるのか。でもそれは幼少期から染みついた儀式のようなもので、そうすることで美味しくなっているはず。魔法の一枚。鍋よりもほんのひとまわり小さいフタを乗せてひたすら煮詰めていく。 私は人参の味があまり得意じゃないから、柔らかくなるまで煮たい。生で食べた時においしい!と感じる時もあるんだけど。なんでだろう。 人参はあんまり好きじゃないけど、ピーマンは大好き。 レシピを参考にしたわけじゃないのに、我ながら美味しくできたから大満足。いつものおまじないのお陰かもしれない。 人参もやわらかくなって甘みが増して。 自分が食べたいものを自分で作るのは案外、楽しいことなのかもしれないと思えた。 私は私の機嫌を自分でとっていける。



お気に入りのバームクーヘンがある。 一番外側がホワイトチョコでうっすらとコーティングされているバームクーヘンだ。 冷蔵庫で2〜3時間冷やし、チョコをパリッとさせて食べても美味しいし、常温でチョコレートが少し柔らかくなっているのも美味しい。
4日ほど前に母が買ってきて、2人で大事に取っておいた。 ついにご開帳である。 袋を切るとバターの濃厚さと甘い香りがふわっと香る。 わくわくしながら包丁を入れると、手応えがなんだかいつもと違う。 刃を入れた時のしっとり感がない。まさか乾燥しているのか。 母には1カット。自分には2カット。 母には緑茶。自分は牛乳。 フォークを刺し、いざ口に運ぶ。
ぱさぱさだった。
しっとりしていたであろうバームクーヘンの生地の水分がすべて蒸発したかのようだった。 美味しいには美味しいのだけれど、ベストからは遠いところにいる。
「もったいないなんて思わず、すぐに食べればよかったね」と顔を見合わた。失敗したことを認めるのが悔しいのか 「でもこれでも十分美味しい」 と母は笑った。 自分の失敗や失態を認識するのが苦手な私は間違いなくこの人から生まれたのだろうな。 ぱさぱさのバームクーヘンを冷たい牛乳で流し込む。 お気に入りのバームクーヘンはぱさぱさでも美味しい。 けれど、次からはすぐに食べよう。




やることがないとすぐに眠ってしまう。 春でも梅雨でも夏でも秋でも冬でも。 12時間近く寝続けて「死んだかと思って部屋を覗くのも怖かった」と言われたことがある。 いや、そこは怖くても部屋を覗いて確かめて欲しいところではある。
今朝は7時半ごろに起き、ゴミを捨てに行き朝ごはんを食べ、部屋で横になったらいつのまにか眠っていた。 目を覚ますと午後1時過ぎ。 喉がカラカラに乾いていたから冷蔵庫から麦茶を取り出しごくり。 おやつご飯を食べ、寝っ転がりながら本を読み、洗濯物を干し、洗濯物を畳む。やることがあったのでめずらしくお昼寝なし。 気が付けば夕方なので夜ご飯の支度。 調味料の入った棚の中に取り出そうとした塩をぶちまけてしまう。2マス戻る。 塩のチャックはしっかり閉めることを心に誓う。
夜ご飯を食べ、YouTubeをぼんやり眺めていると、いつのまにか眠っていて、ふと目を覚ました時には日付が変わる時刻になってしまうことがある。 今日はお昼寝しなかったけれどお夕寝をしてしまった(夕食後の睡眠をお夕寝と呼んでいる) 。こんなにも眠ると夜寝つけなさそうだけれど、睡眠の女王にはなんてことはない。 汗ばむ体を起こし、お風呂に入り、歯磨きとフロスをし、床についてSNSを巡回する。 万が一眠れない時は外国語のPodcastを聞く。異国の言葉は集中しなければ意味を追うことができないので、次に気付いた時には、明日がまたやってきている。




今日は夏の匂いがする天気だった。 灼熱の日に晒された車内はもわっとした空気で息苦しい。 熱気が充満した車内の空気を入れ替えるには、エアコンを外気から取り入れるにして3〜5分オートでがんがんかける。 涼しくなったら内気循環に切り替えるといいらしい。 いつかのどこかで見たテレビの受売りをそれから真似している。 今日はスーパーで鶏肩肉なる部位を買って(たぶん600g近く)、ひたすら揚げた。 もも肉と胸肉のちょうど中間くらいの肉質。ももほど油みすぎず、胸肉ほどパサパサしすぎない。 思い切り食べるにはちょうどよい食感だった。 から揚げはレシピを見ずに作れるようになった料理の一つだ。袋に放り込んだお肉に、すりおろした生姜とにんにくを適当な量いれる。おろしきれなかったものは包丁で細かく刻んでそれらも袋へ投下する。これまた目分量で醤油差しから直接、お肉全体にお醤油が行き渡るくらいかける。袋を軽く結び、揉み込む。 お肉の柔らかさとほんのりした冷たさが手に心地いい。揉み込んだな、と思ったら冷蔵庫で味をなじませる。その間にお皿を洗ったり、他のおかずに取り組む。 薬味は思っている倍入れるのが吉だ。 何かのアニメで、主人公がつみれを作る時のポイントに「薬味は思っている倍」と説いていたセリフを思い出したりする。
今晩の唐揚げも無事に美味しく仕上がりました。 なんだか毎日ご飯の話ばかりしているなあ。ご飯は毎日食べているから当たり前といえば当たり前なのかもしれない。 明日のおかずは何にしようかな。



五徳を掃除しようと思い、台拭きでコンロを拭いていたら火傷をした。 直前まで味噌汁を温め直していたことをすっかり忘れていた。 五徳はまだ熱く、親指が当たってヒリリとした。 あまりも痛い時、人は「痛い」と声を上げることができないようだ。
言葉を発するのを忘れたまま、あわてて流水で冷やす。 5分経っても火傷した箇所はまだ水の冷たさを感じない。 10分、15分。水の冷たさを少しずつ知覚してくる。 20分経ったくらいだろうか、やっと火傷の痛さから水の冷たい痛さをじんじんと感じた。 手を拭き、軟膏を塗る。 腫れも赤みもない。ついさっきそこを火傷した跡がまるでなくて、残ったのは冷たさだった。
痛みを「いたい」以外で声に出せるように。 痛い時にちゃんと「いたい」って伝えられるように、私は今日の「いたみ」を記録していく。



誕生日プレゼントにブルーライトカット眼鏡を買ってもらった。 たまたまその頃、パソコンで物を書く機会が多く、歳を重ねだんだん眼鏡が似合うようになってきたのもあって、久々に欲しいものとしてあがった品。

夜中に部屋の電気を消し、真っ暗闇の中、わずかな勉強机のライトだけでハリーポッターを読み耽る小中学生時代を送ったものの、現在に至るまで視力は良好。 だから私のブルーライトカット眼鏡も度なしだ。好きなフレームにブルーライトカットレンズを付けることができたので、あれこれ試着し、やや丸みを帯びたダークブラウンの縁あり眼鏡を選んだ。 我ながらなかなかキマっていると思っている。 今日はたまたま仕事場でパソコンを使う予定があったので、お気に入りのその眼鏡をかけて机に向かっていた。 すると隣の席の人から「眼鏡かけるんですね」と。 そして続けざまに「眼鏡もよくお似合いになりますね」と。 急に褒められ、少し恥ずかしくなって思わず「今日はパソコンを使うのでブルーライトカット眼鏡を。度なしなんです」と聞かれてもいないことを口走ってしまう。 「僕は眼鏡が全然似合わないから、いやぁ素敵です」 とたたみかけられるように言われやっと素直に「ありがとうございます」と答えた。 眼鏡は家でパソコンを使う時にするくらいなので、他人から眼鏡姿を素敵だなんて言ってもらえ、私の中のもふもふした大型犬が尻尾をぶんぶんと振っていた。 自分の中でお気に入りだったものがもっと好きになった瞬間。 私自身が満足して選んだものを、誰かにそのセンス素敵ね、と言葉をかけてもらえるのはとてもうれしいことだ。 自分の好き、を人も受け止めてくれたような気がするから。 私の中には自分の意思で選べるものと選べないものがある。 年齢や親、体、名前、自分の意思だけでは簡単に選べない。 でもファッションや髪型、持ち物、言葉遣いは自分で選んでいける。 その人が自分で選んだもの私も「素敵ね」と言える人になりたい。



微熱って単語が好きだ。 創作の時についつい使いたくなる。 なんともいえない気怠さに頭がぼーっとして、物事の輪郭がふやけていく。 本当の微熱は心配になることの方が多い世の中だけれども。 今日は(も)異様に眠たくて、お昼ご飯を食べた後に少し眠ってしまった。 私はよく眠る方だし、割といつでも眠たい。 それにしてもここ2、3日は常にうとうとしている。 ホルモンバランスの乱れか、この暑すぎる熱気のせいか。 帰宅してからも疲れ切って死んだように眠った。 夜ご飯を作って食べる元気もなかったけれど、お腹は減るから、鶏胸肉と玉ねぎと刻んだニンニクひとかけ、トマトを一緒に煮込んで熱々のスープを作った。 ぐつぐつ煮えたぎるスープをお皿に注いで、その上にチーズをたっぷり。 自分のためだけにご飯を作るのは億劫なのに、最近は少しだけ楽しい。 食べたいものを食べたいように食べたいだけ。 私の機嫌を満たすのは、私。



ATMの時間外手数料って誰の何のためにあるのだろう。 今日はクレジットカードの引き落とし日だった。 引き落とし口座に振り込む用にお金を前もって準備していたのに、帰って疲れて眠ってしまい時間外手数料が掛かる時間になっていた。仕方がないので110円を払って入金する。引き落とし日だからだろう、入金した途端に入金額から即座に減った口座残高を目にし、さみしくなってしまった。 さようなら私の諭吉さんたち。 さようなら私のおっちょこちょいで失われる110円さん。 人の手仕事にお金を払うのは分かるけれど、ATM機に払うのはなんだか納得がいかない。機械なのに、とケチな私が出てくる。けれど、その機械をプログラミングしたり、メンテナンスするのは人の仕事か。巡り巡って、私の今日の110円が誰かの生活のお金へとなるならそれはそれでいいか。 と、思い込むことにして納得させる。来月こそは気を付けよう。



今日は雨が降ったり、曇ったり、お日様が出たりで忙しい空模様だった。 そのせいだろうか。 起きては、寝て。起きては寝てを繰り返した。 気圧の変化に特別弱いってわけでもないけれど、なんだか今日は身体が怠い1日だった。 日曜が終わるこの時間はいつもとても惜しい気持ちになる。 眠ってしまえば、あっという間に月曜日が来てしまう。小さく足掻いて、眠らず夜更かしをしても、否応なしにやってくる。 寝不足で迎える月曜日はなかなか厳しい。 今日は生まれて初めて、秋刀魚の腹開きをした。 私が今のところ唯一ひらける魚は鯵。鯵はなんとか3枚におろせるようになった。 秋刀魚は頭と尻尾を落として、お腹を開いて内臓を取り出す。 血生臭いにおいと、毒々しい内臓がぬめっと指にまとわりつく。 ああ、私は他の生き物を殺傷して、生きながらえているんだな、と突き付けられる。 内臓と血合いを流水で流して、背骨に沿ってお腹を開く。 1尾目は身が少しぐちゃぐちゃになってしまった。 気を取り直して2尾目に取り掛かる。内臓を綺麗にするところまでは要領を得た。 お腹を開く時に包丁をいれる角度を少し調整する。 さっきより幾分かマシになった。 そのまま3尾目へ。 調子に乗ったのが魚伝わったのか最後が1番身がぐちゃぐちゃになってしまった。
レシピを見ながら、開いた秋刀魚に小麦粉をまぶし、フライパンで両面をこんがり焼く。 面倒くさがりだから、タレを作るのもそのままフライパンでする。 お酒、しょうゆ、みりん、砂糖を煮立たせ、タレが照るまで絡ませる。 焼いて蒲焼にしてしまえば、見栄えはなんとかごまかせ、ほっとする。 味はまずまず。 秋刀魚を開けるようになるには、まだ少し練習が必要そうだ。



今日、出勤したら机の上に白い袋が置かれていた。 なにかと思っていると「誕生日プレゼントです」と目の前に座っている同僚から声をかけられた。 今週末、私は誕生日を迎える。 目の前の彼女とは今日しか会わないので、一足先にプレゼントを贈ってくれたようだった。 自分の誕生日のことなんて職場ではすっかり頭から抜け落ちていたから、びっくりして、あたふたとしてしまった。 誕生日の1ヶ月くらい前は「あと1ヶ月で……」と来たる日をドキドキしながら恐れていたのに、数日前となると生まれた日が来ることに鈍くなる。 毎日をこなしていくことに必死で、アラサーともなれば大々的に祝うモチベーションも楽しみもそんなに湧いてこないからかもしれない。 別に誕生日がきて、歳をひとつ重ねることが嫌な訳じゃない。 でも無邪気に、純粋に待ち遠しく感じることもなくなってしまった。 日々は当たり前にやってくるし、その日々が連なり、毎日をやり過ごしていけば、あっという間に1年という月日は過ぎてしまう。 それに歳を重ねれば重ねるほど、幼い頃に自分が想像していた「大人」の自分と現実の私があまりにかけ離れていて、焦燥感に駆られる。

20歳の自分は想像ではもっとしっかりしていた。
25歳は大人で思慮深く、社会性を身に付けている予定だった。
30歳になる頃には、キャリアでも将来を共にするパートナーでも、預貯金でも何かしら確信や誇りの持てる事柄があるのでは?
人生100年時代といわれる現代人だとしても、自分があまりに未熟な気がしてならない。 私、何か成し遂げてきたかしら。 誕生日プレゼントでもらった酸味の強いレモンティーを啜りながら、これまでの人生でやれたことを探そう。 自分のペースで大人ってやつになっていこう。 両手で守れるものだけ大事にしてやっていくんだ。




この間、お店でご飯を食べた時にお通しで「冷たい茶碗蒸し」が出てきた。 ちょっととろみのある出汁がかかっていて、艶やかな黄色の上に小さなイクラがぷつぷつ乗っていた。 じめじめとする暑い日だったから、冷たい茶碗蒸しの喉越しが最高に美味しく、ぷちぷちと弾けるイクラの塩気が相まって最高の茶碗蒸し体験だった。 今日は家の中にいても陽射しが刺すように差し込み、暑い1日だった。 ついエアコンをつけ忘れて眠ってしまうと起きた時に、喉がカラカラで頭がぼうっとする。 熱中症は家の中にいても起こる、と身体で思い知る。 窓を開け、空気の入れ替えをしてみても熱風を感じただけだった。 仕方がないので、数分換気をした後、窓を閉め除湿のスイッチを入れた。 梅雨入り前に夏バテしてしまいそう。 食欲が湧かず、先日食べた冷たい茶碗蒸しのことを思い出して涼をとる。 本当は今日の晩ごはんに作ろうと思ったのだけれど、蒸し終えてから冷蔵庫で冷やす時間的余裕がなかったので諦めた。イクラもなかったし。 今日は卵を買ってきたから、明日こそ「冷たい茶碗蒸し」を作ろう。 イクラの代わりにエビがたくさん入ったものを。

昔から母とは変なところで通じ合っている。 特にお互い話していないのに、食べたいものが被って同じもの(ドーナツだったり、お漬物だったり)を買って帰ったり。打ち合わせしたわけじゃないけれど「カレーを食べたいなあ」と思いながら学校から帰ると、母がカレーを作っていたり。 変なところというか主に食欲か。 以心伝心ならぬ、胃心伝心? それとも単に、同じ家に住み同じような食生活習慣を送っていると、食べたいもののタイミングが被るだけかもしれないが。
つい2日くらい前、無性にチョコレートケーキを食べたくなった。 チョコレートでコーティングされている趣向の凝ったものじゃなくて、チョコレートクリームに、ふぁさふぁさの削りチョコレートが乗ったケーキ。 その話はもちろん母にはしていない。 今日は私の誕生日で、母が珍しくホールケーキを買ってきた。 誕生日にホールケーキを食べるなんて何年振りだろう。 箱を開けると、中から出てきたのは「ふぁさふぁさの削りチョコ」が乗ったチョコレートケーキ。 「どうして分かったの?チョコレートケーキ食べたかったの!」 「本当に?よかった」 よかった、と答えた母が嬉しそうに微笑んだのがちょっぴり気恥ずかしかった。 いくつ歳を重ねても、私は母の子供で母は私の親なんだな。 残りは明日の朝ごはんにしよう。 私の誕生日は、母が私の親になった日。 ありがとう。お母さん。


人生で一番値段が高くて、大きいハンバーガーを食べた。 運ばれてきたハンバーガーを持ってみてその重量感に驚く。 持ち上げて「重い重い」とはしゃぎ、お皿に戻して、写真を撮って、また手に持つ。 こんなに大きなハンバーガーを食べたことはもちろん、見たこともないのでどうやって食べれば良いか分からず「どうしたらいいかしら」とつぶやいてしまった。 どうしたらいいか分からず、本当に困った声が出たのだろう。 それがあまりにも間抜けな音になって耳に届き、自分でも言葉を発した途端可笑しくなってしまった。 目の前の相手とケタケタ笑い合った。 大きすぎるハンバーガーを前にすると人は笑ってしまうらしい。 ちなみに私が今まで食べた中で大きいなあ、と感じたハンバーガーはオーストラリアで食べたどこかのハンバーガー。 今回はボリューム1.5倍、値段3倍というメガ級。お腹がいっぱいで苦しくなるのは久々で生きているなあと思う。 お風呂でゆっくり腹休めをしてこよう。



恋のようなものの始まりは、とても楽しい。 春、草木が芽吹くような瑞々しさ。果実から滴りおちるジューシーな甘み。 世界が浮き足立っているような気がしてくる。 日々の生活に忙殺されていると、胸がときめいたり、高まって苦しくなったりすることを忘れてしまう。 毎日、起きて、コップ一杯の水を飲み、電車に揺られ、仕事をこなし、無言で帰宅する。疲れ切って眠ってしまい、生命維持のためのご飯を適当に済ませ、シャワーを浴びて、寝てまた明日。 音楽に乗って体をゆらゆら動かしたり、素晴らしい芸術作品に魂を揺さぶられたり、映画やドラマを見て目頭を熱くする、そういうトキメキの為のゆとりがすっかりなくなってしまった。

恋のようなものをしたい。

お気に入りの少女漫画を読んで、紙の中のうら若き乙女たちの恋愛模様に一喜一憂しながら、ときめきを拝借して満足するのではなくて。 何かを思って笑みが溢れたり、時に不安で仕方がなくなる、あの恋の始まりに似たときめき。 リハビリに明日は映画をみよう。 スマホの電源を切り。ときめきを探しに世界に没頭しよう。



暑くなってくるとミルク出し紅茶を飲みたくなってくる。 寝る前、小鍋に紅茶の葉と牛乳をざっくばらんに入れる。 そしてそのまま冷蔵庫へ。 次の日の朝にはふんわり紅茶が香るミルクが出来上がっている。 簡単。おいしい。幸せ。 紅茶の茶葉はスリランカで買ってきたものを100円ショップのお茶パックに入れる。 量は適当。 牛乳も適当。 たまに「あ、これは牛乳に対し茶葉が少なかったかしら」と思う時もあって、そういう時は大体紅茶の風味が薄い。 でもまあ、牛乳を飲んでいると思えば問題はないのでオッケー。 毎回味の濃さが違うのもご愛嬌。 小鍋に入れるのは温めて飲みたくなった時もすぐそのまま火にかけられるから。 どこまでもずぼらな私にちょうどいい。 私が作るミルク出し紅茶は、味的には紅茶風味ミルクといった趣きで、紅茶を飲みたい!という気分の時には不向きかもしれない。 紅茶をたっぷりの牛乳で飲みたい時は、スリランカ風にかなり濃く(苦く)煮出し、熱々の紅茶と冷たいあるいは常温にした牛乳を1対1の割合で混ぜる。 紅茶の渋みや苦味が牛乳でマイルドになって、これがなかなかイケる。 スリランカで初めて紅茶を頼んだ時に、日本で飲むスタイルのようにストレートで頼んだら「本当に?ミルクいらないの?いいのね???」という顔をされ、不思議に思ったら、どうやらスリランカの紅茶はかなり濃く出すらしく、ストレートではとても飲めたものではなかった。 思わずさっきの店員さんを呼び止め「ミルクをください」と頼んで、ミルクを注いでもらうと、さっきまでの苦味が牛乳と混ざってとても美味しかったのをよく覚えている。 だから牛乳を飲みたい気分の紅茶の時は、私はスリランカスタイルで煮出す。 砂糖を入れてもいいのだけど、紅茶自体の濃い味わいが牛乳の甘みを引き出すから、お砂糖がなくても優しい甘さと濃厚さを感じられる。 暑い日にはミルク出し紅茶、夏の冷房で少し肌寒い日には熱い紅茶ミルク。 今晩もいい加減に茶葉とミルクをお鍋にいれて、眠ろう。 明日はどんな味になるだろうか。




#創作大賞2023 #エッセイ部門

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