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野村恵子『Otari - Pristine Peaks 山霊の庭』(2018, スーパーラボ)

新潟との県境、北アルプス山脈の麓に位置する長野県北安曇郡小谷村を舞台に撮影されたこの写真集は、四季、水、血、生命の循環をテーマとしている。最初にこの写真集を見た時に、野村の過去の写真とは、少し違う印象を受けた。対象との間に何かフィルターが掛かっているような空気感や揺れ動く不安定感を感じた過去の写真に比べ、より対象を明確に捉える意識が強く感じられる。また、もともと35mmフィルムカメラで撮られた写真はトリミングされ、ほとんどが 6x4.5フォーマットに統一されている(4枚だけは元のフォーマットのままだが、その理由は読み取れなかった)。このことが画面構成の安定感をさらに強めている。

「ティム・バートンの寓話世界」をイメージしたという。たしかに、どこか寓話的あるいは童話的に感じる写真集だ。 散文詩のような短い文章が、それと呼応する写真と谷を挟んで向かい合うようにレイアウトされている。まるで谷を挟んで「こだま」が響くかのようであり、対話をしているかのような構成が、なんとも詩的だ。この構成が童話的と感じる理由かもしれない。自然と寄り添って生きる生活がここでは描かれているが、それは自然をいかにコントロールするかを考えている現代の都市生活とは対比的であり、示唆的である。表紙は妊娠している女性の写真である。山村が舞台の写真集というと、これまでは、どちらかといえば男たちの世界が描かれてきたように思う。女性の身体性を持ち込むことにより命の循環が描かれる本作は、この点で過去の野村の作品との連続性を感じる。狩猟での動物の死、そこで流れる血、そして生。そこに連なる妊婦の写真は、野生と人間の生命が決して切り離せない関係性の上に成り立っていること暗示する。

都市の時間は、制度として決められたものに支配されている。一方で、山村における時間世界は、自然と住民の関係の中から創造される。雪深い冬は狩猟の季節であり、2月に行われる火祭りは五穀豊穣・家内安全を願い、春が来る節目に行われる。春の訪れにより緑は芽吹き、雪解け水は水田に豊かな水をもたらす。緑濃い夏とその短い夏だけを生きる儚い生命、そして樹々の葉が色付く秋へ。この写真集では、四季の時間の流れがそのままレイアウトされている。これは、非常に「日本的」な構成だと言えるだろう。文芸評論家の加藤周一は『日本文化における時間と空間』の中で、日本の古典的抒情詩における四季のありかたについて、このように述べている。「四季の移りゆきを重んじるのは、日本の文化において際立った傾向である。四季は循環する。そこで起こる事象は一回限りではない。「逝く春」はまた還って来るし、「あまりに短かかりしわれらが夏」は再びきらめくだろう。四季の時間は、直線的に前進するのではなく、円周を巡るのであり、円周には始めもなく終りもない。円周上のあたえられた一点、すなわち現在の時点において、人は過ぎ去ろうとする季節を惜しみ、来ようとする季節に期待するのである。」 この写真集はまさに移ろいゆく四季の循環を表し、そこに生命の循環を重ね合わせている。

半自給自足生活が行われている山村の世界は、我々の住む都市の世界やインターネットを介して繋がるグローバル社会と比較すれば、隔絶された小宇宙のような存在だ。(実際のところ著者と繋がりの深い現地の集落は、学生の研修を定期的に受け入れているようなオープンなコミュ二ティで、これは少々大袈裟な表現ではある)写真の周りに大きく取られた余白は、「日本的な間(ま)」を表現しつつ、冬になると深い雪に覆われること、小宇宙として隔絶されることのメタファーとしての役割も与えられているように感じた。

※ この記事は「The White Report」に掲載したものを転載しています。

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