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心がぐらつく日

 新幹線で東京へ向かっている。今日は学会だ。大腸がんの専門学会だ。

 前の職場を辞め、今の職場に来てから学会で発表をする回数がかなり減った。予想はしていたが、ある程度は仕方のないことだ。今回も発表なしで学会に参加する。こんなことは数年来ない。前の職場の上司たちに会えるのは嬉しいが、なんとなくどんな顔をすればよいかわからない。話したいことは山ほどあるのに、何を話せばいいかわからなくなってしまう。

 ここ数日、訳も無く心がぐらつく。心がぐらつくとは我ながらいい表現だと思う。堅牢な神殿のような私の心。37年かけて建築したこの心が、ときどきぐらぐらと揺れることがあるのだ。太い柱の一本一本は急に柔らかくなり、大理石をあしらった床にはいくつもの穴が開く。そうして建物全体がぐにゃりとゆがむ。

 ぺしゃんこにならないように、私はそっとバランスをとる。風が止むのを待つ。だいじょうぶ、いつもの風だ、しばらくすれば自然に風は止むから。そう自分に言い聞かせる。それでもまだ神殿はぐらぐらと揺れている。

 仕方ない。神殿の真ん中で、ひんやりとした石の上にあぐらをかいて一人考える。途端にすべてがどうでも良くなる瞬間がある。外科医の仕事。一通りの手術は人より早く出来るようになったし、くぐらざるを得なかった多くの修羅場のおかげでピンチの対応もまあできる。研究はいくつか始動している。もの書きの仕事。ヤフーニュースに書いた記事は100本を超えた。持たせていただく連載も、どうにかクビにならない程度には読まれているようだ。書いた小説は、3年の時を経て少しずつ進んでいる。

 何一つうまくいっていないことはない、と思う。そりゃ進まないダイエットとか、もみあげに白いものが混じってきたこととか、職場であるドクターに無視されつづけるとか、挙げれば嫌な事だってあるにはある。それらは、自分の中では勘定に入れていない。それでも、心がぐらつく。これまでやってきたことなど、100年後にはなにも無くなっている。その事実を思うたびに、憂鬱になる。

 こんなときは、啄木にならい花でも買って妻と親しむのが一番だ。結婚って、きっとそういうことだ。しかし出張中はそれもままならぬ。会いたい男たちがいるが、彼らにも先日会ってしまったから誘いづらい。あの巨大な渦のような東京で、心鎮める場所なんてどこにもない。

 

 熱狂していた。医者6、7年目。誰よりも早く階段を登りたいと、無意味にやっきになっていた。同時に、やりきれない思いを書き本にした。それからずいぶんいろんな人と出会った。人と会うたびに、自分の人生が少しずつ変わって行くのがわかった。本を読んでも、映画を観ても、オペラを観劇したって変わらなかったことが、誰かに会うだけで音を立てて変わった。人生は、人との出会いで出来ている。芸術鑑賞や内省では出来ていない。そんな気すらしていた。でもそんなことはない。自分の頭で、自分のことや世界のことを考えねばダメだ。どうやって生きて来て、これからどうやって生きるのか。8年後の45歳の時には何をしているのか。55歳ではどうか。いつまでオペをやるのか。いつまで医者をやるのか。

 考えれば考えるほど、出口は狭くなって行くような気がする。こんな日もある。いつか読み返す自分へ、記録しておく。


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