私のストーリー

こんにちは。

暫く間が空いてしまいましたが、今回から改めて "私のストーリー" として、私がこれまでの人生の中でどのようなことを経験し、そこからどのようなことを考えるようになり、NLPとの出会いによってどのような変化がもたらされ、今後、自分の本当の仕事、ライフワークとして伝えていきたいと考えるに至ったのかをシェアしていきたいと思います。

誕生〜幼少期 ⇦ 今回のテーマはここ!
学生〜社会人
結婚〜子育て
海外移住
NLPとの出会い
自分の夢の実現に向けて

自分への振り返りノートとしても残していきたいので、少し長くなるかもしれませんが、どうぞお付き合いください!

誕生から幼少期

私は1976年、東京で生まれました。家族は両親と2歳年上の兄との4人家族です。

育った環境は、東京の杉並区という現在も住宅地として緑が多く残る地域です。保育園近くのアパートに住んでいた時には近所にジャリ山や畑が広がり、東京にいながらも身近に自然を感じられる環境で育ちました。

我が家は当時はまだ少数派の共働き家庭で、父親は出版社勤務から編集者として独立起業したばかり、母親は公務員として児童福祉関連の仕事をしていました。今考えると、乳幼児二人を抱えながら独立起業をした父を支えつつ、フルタイム勤務(当時は週6日勤務)と子育てをほぼワンオペでこなして家庭を支えていた母親の努力は相当なものだったと思います。ここまで健康に育ててくれたことに、改めて本当に頭が下がります。

育休もなかった時代、保育園には0歳からお世話になりました。4月生まれの私は、学年の中でも年長組で、常日頃から兄と競っていたせいか走るのも速く、気も強かったので、男の子にも負けない気質で常にクラスの中心的な存在でした。

当時は延長保育なども当然なく、保育園の定時と母の仕事が終わるのが同じ時間だったため、お迎えはいつもビリ。担任の先生も帰り仕度をし始めて部屋のカーテンが閉じられていく中で、大丈夫かな、お迎え来るかな...と少し不安に感じながらも、カーテンの隙間から母が飛び込んで来る瞬間がいつもとても嬉しかったのを覚えています。

また当然ながら病児保育もなかったので、朝熱があって保育園に預けられない時には、八王子の祖母に頼んで出てきてもらい、改札で子どもを引き渡して面倒を見てもらうこともしていたそうです。病気の子どもを預けてまで仕事に行かなくてはならなかった当時の母の気持ちを思うと、必死に頑張りながらも心配で辛かっただろうと思います。

週末は土曜日出勤が通常だった母に代わり、父が私たち兄妹の面倒を見てくれていました。平日は帰宅が遅く朝しか会えない父でしたが、週末は私たちの食事から家事、遊びまで全てを一人でこなしていました。保育園時代は毎週のようにお弁当を持って井の頭動物園に通い、小学生になると揃って自転車に乗って図書館通いという定番コースを繰り返していました。当時は毎週繰り返されるルーティンに仕方なく付き合っているような時もありましたが、今思うとこの時期のたくさんの本との出会いが私の世界を広げてくれて、後に海外にも強い興味をもつきっかけとなったのではないかと思います。

この様な幼少期を過ごした私にとって、小学校に入学した時に、周りのほとんどの子はお母さんが専業主婦で家にいる家庭であることに正直びっくりしました。初めてアウェー感を感じたのはこの時だったと思います。

いわゆる鍵っ子で、放課後は学校の敷地内にある学童クラブで夕方まで過ごしていました。またあとでねーと遊ぶ約束をしながらそれぞれの家に帰宅する友達を少し羨ましく見送りつつも、そこにはまた別の自分の居場所もあり、それ程寂しさは感じなかった様に思います。

夏休みになると母の勤務先の児童館が主催するキャンプやイベントに参加したり、父の会社に連れて行ってもらって製本された本にカバーや帯をかける手伝いをするなど、両親の働く姿も身近に感じていました。

このように共働き両親の家庭で育った私にとって、将来、自分も働きながら家庭を持ち、子どもを育てるというのはとても自然なことと考えており、中学生の頃にはすでに自分の将来のロードマップが描かれていて、それをどの様に実現するのか、そのために何をしたら良いかを考え、目標を立てて実行するを繰り返していました。

根っからの目標達成型ですね。

現在の私が「キャリアも子育ても自分の夢の実現も、やってみたいことは全てやってみよう!出来ないことはない!」と考えるベースはこの幼少期から培われており、また、自分の中で "働く" ということがとても大きな意味を持っているのなのだと改めて感じました。

以上が、誕生から幼少期のストーリーです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。次回は学生時代に続きます。

Yuka

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