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『もっと人間は自由になっていい』  ものの考え方の底上げによって実現しようとしている物理学博士であり、一般社団法人Glocal Academyの代表理事岡本尚也さん

物理学の博士号を取り、オックスフォード大学で教育社会学を学んだ後、日本の課題である、ものの考え方の育成する一般社団法人を立ち上げ、鹿児島から世界へインパクトを与えようとしている岡本さんにお話をお伺いしました。

岡本 尚也さんプロフィール
Naoya Okamoto
出身地:鹿児島県
活動地域:全国
職業と活動:物理学博士・社会起業家
経歴:慶應義塾大学理工学部卒、同理工学研究科修了
ケンブリッジ大学にて物理学博士号を取得
オックスフォード大学にて現代日本学修士号を取得
ケンブリッジ大学在学中の研究成果がNature Materials 等、世界トップジャーナルに論文が掲載された。帰国後、NPO法人を創業
一般社団法Glocal Academy 代表理事
企業の経営コンサルティング
ものの考え方の教育と実践、育成をしている。全国高校生を対象にシンポジウムを主催
社会や学術における諸課題を研究的手法を用いて解決する事を目的とし、後進の育成やそれら課題に取り組む個人及び企業・団体を支援している。
新興出版社啓林館より『課題研究メソッド―より良い探究活動のために―』を出版。
2018年米国国務省事業International Visitor Leadership Program(IVLP)メンバー.
文部科学省地域との協働による高等学校教育改革推進事業委員
座右の銘:大事にしているのは「筋を通す」「責任」


Q:岡本さんはものの考え方を育成する仕事をされています。どうしてものの考え方を育成したいと思ったのですか?

理由は主に3つあって、まずは小さい頃からいろんな物に興味を持っていたことと、大学4年に恩師から教育を受けた時に、僕は物事を理解してなかったんだと痛感したことです。自然科学、自然現象の原理に興味を持っていました。一方で人間社会の原理にも興味がありました。大学院の博士号を取るまでは物理を、その後は教育を通して、人間の営みを理解しようと思っていました。

学んでいく中で、日本には体系的なものの考え方を勉強する場がないことに気付きました。
具体的には、きちんとデータ分析のエビデンス(根拠)を基に考えられていないことです。
オックスフォード大学では教育社会学等を履修していましたが、教育社会学から見ても、日本は政策を決めているときに現状把握、原因調査等のエビデンスがあまり政策に活かされていない。企業の中にも多少なりともそのような要素があり、観念的、感覚的な議論が優先されてしまう時がある。
それが日本社会のかなり大きな問題だと感じています。

戦後から社会が高度化をしていく中、複雑な現象とその原理・原因をエビデンスをもとに理解し、課題を発見し、現状打破につなげて行く。そのような仕組み(アメリカのシンクタンク等)やそれを担う人材の育成に力を入れていく必要があるのですが、大学、特に大学院で十分にそれが行われていない。

中国では国を挙げて博士号を取る人を育成しています。
海外のTOPの大学で教授の資格を取らせて、国に還元していく流れを作っています。
中国の場合は、論文の出版数・引用数がこの2~3年で急激に伸びています。
日本の場合は大学院への進学者、論文数・引用数が落ちていっている。もちろん、大学・大学院だけがそれらを担う訳ではないのですが、ものの考え方を学ぶ環境と、価値観と人材、それらを受け入れる環境が不足しているのは結構大きな問題だと思っています。

これだけ社会の流れが速くなると現象だけを追っても振り回されます
その根底の原理は実はそこまで変化がない場合が多い(トランプ現象やイギリスのBrexit等)ので原理を理解するという力は身に付ける必要があると思います。以上が1つ目です。

2つ目、鹿児島をあえて選んだのは、人のやっていないことをやろうと思っているからですね。
東京の方がやりやすいです。教育するにしても学校の数が全然ちがうので、毎日の講演だけでも食べていくことが出来ますが、でもそれでは面白くないんです。
すぐにイメージできることは面白くないんですよ。どうなるのか分からないのが面白い。

次の世代の学生、子供たちに場所に関係なく社会にインパクトを与える仕事が出来ることを見せたいと思っています。
東京は東京の為に働いてないけど人は集まってくる。何故かというと自分の自己実現が出来る、その機会が多い場所だと思っているんですね。
地方創生と言っても人が帰ってきて、自己実現の為に、ある種野心的に何かをするっていう意味では足りないなと思っていて、それには地方で何が出来るのかを自分自身が示さないと。それの一例になれればいいかなって思ってるんです。

グローバルな世界とかいうわけですが、鹿児島が世界に入らないのか?っていう話なんですよ。
例えば僕が海外のドイツかイギリスの町で起業したとします。
すると世界で活躍しているって言われます。なんで鹿児島だと世界で活躍していることにならないのか?という話で、とても腑に落ちない所があるんです。
何で鹿児島なの?とよく聞かれますけど、ご飯も美味しいし温泉もある、住んでいる所が比較的便利なところで、通販もあるし別にどこでもいい。東京も大好きですけど、鹿児島で仕事を行う面白さもある。
機会の無いところでどうやって機会を創って行くのかという考え方の方が面白いんです。

3つ目は、首都圏の進学校の子供たちに「今、社会で何が起こっているのか?」を聞いたらグローバル化だとか、AIがとか言うんです。
地方のとある高校生に聞くと、不平等とか理不尽だとか言うんです。
「何でそう思うの?」と聞くと、自分はこれこれこういう経験をしている、と言うんです。
グローバル化やAIと言うのはメディア等からの又聞きの情報なんです。つまり社会にある種接してない。けれども彼らは社会を引っ張っていく人間になります。
これって結構危ないんですよね。
社会がどういう状況なのかという自分事のことなのに、どこか他人事になっている。自分の問題意識とつながっていないのはちょっと問題です。

この夏にアメリカに行く機会がありました。
国務省がやっているプログラムにご招待頂いたんですけど、その時にアメリカの高校生と触れ合う機会がありました。
みんな課題研究みたいなのをやっていて、何の研究しているのか?と聞いたら(その子達はみんな黒人の子供たちだったんですが)白人警官と黒人の対立について研究していると。
「なぜそのテーマを選んだの?」と聞いたら自分の経験に基づいていて、自分のおじさんが射殺された子や、何もしていないのに追いかけられた子もいるし、日ごろ生活していく中で常に見られているような経験をした子供たちがいて、アメリカの場合は人種間の問題がとてもよく見える。そこに対する当事者意識がとても強いんですね。
つまり民主主義における一番大事な当事者意識というものが備わっているんです。

アメリカには地域にコミュニティーがあって、何かしら社会に対するの意見を交わす場があります。
民主主義社会において自分たちが担い手で、国を良くしていくという考え方、それが実践できているんです。
日本の場合はそこの根底が希薄になっている。戦後の過度な学生運動の影響もあったでしょうが、与えられた民主主義という印象です。
自分たちの生きている社会で、民主主義国家に長い年月をかけてやっとなったのにもかかわらず、その社会の当事者意識と問題意識を持たず大学に行っているんですよ。

大学は高等教育です。明治大正時代の学生はいい意味のエリート意識ノブレスオブリージュ的(※1)なエリート意識があったんでしょうけど、今の子たちは選抜されている意識が薄いうえに、問題意識を明確に持っていないというのはさすがに問題だなと思っていて、地方の場合って貧困とかそういうものが目の前にあるけれど、残念ながらそれについて知っている生徒がいないんですね。

社会の中にいても、課題先進地域であるのも関わらずそういうものが活きていません。かつ、学ぶ根幹的な部分、何のために学ぶのか、それが目の前にあるにも関わらず社会とつながっていない。
今の社会の現状をより知る機会のある地方の子達の方がチャンスがあると思っているので、そういう子達がしっかりした認識を持ったうえで、ものの考え方を学び、自分の問題意識を語れるようにならないと、価値観がとても狭い国になってしまうなと思っています。
もう一つ挙げるのであれば、純粋に教育の機会も作ろうと、ケンブリッジ、オックスフォード大学に格安で連れていったり、それと同時に社会問題の教育として直接にイギリスに連れて行ったり、オックスフォードの学生を毎年、鹿児島に呼んでワークショップを開いたりしています。もう3年目ですが徐々に浸透しつつあるので、それはよかったかなと思っています。


Q:グローバルに考える視点が必要ということですか?

学問の世界は国境が無いので、グローバルとかいう必要なくて、やっていく中で勝手にグローバルになって行くものです。
例えば、戦後の日本のソニーとかパナソニックとか、電化製品が海外に進出していきましたよね。
それはその担い手の人たちが英語が出来たからではないんですよね。それ以上に大切な価値を持っていた。グローバル=英語みたいな、最近の動向を見ていると、とても安直に見えてしまう。

日本語でこれだけ知的な体系、本があったりだとか経済も発展していて、母国語で全てが賄える状況は、こういう小さい国においてはとても珍しい事なんですよ。
日本語で博士号まで取れるというのはとても貴重なことで、その言語で学問が発達しているという証拠で、母国語で博士号まで取れる国は非常に少ない。むしろほとんど無いんですよ。
それを重視しないで英語だ海外だは、それこそ現状把握が十分にされていないのではないか。日本語が出来る事が実は強みにもなることも当然あるわけです。


Q:何を問題だと思うのかがとても大事ですね。

そうです。
例えば自然科学の分野って言葉の定義が変わらないんですよ。電流、電圧は何百年後も変わらない。
でも日本語で使われている言葉の定義は変わります。
例えば「平和」って、概念として共有出来ている言葉ではあるものの、人によって言葉の定義は違ってきます。
日本において100年前に考えられてた「平和」と今の人達が考えた「平和」の言葉の定義が変わっているんです。
定義が変わるということはおそらく価値観の変化でもあると思うのですが、その中では当然、何が問題なのかが変わっています。

例えば戦後のモーレツ社員ってありましたね。「24時間戦えますか?」今ああいうCMやっていたら問題になりますよね。
何が問題なのかというところは常に問い続けないといけない問題で、目の前で起こっていることを情報を情報として受け取るのではなくて、それ本当に問題なの?と考えること。

あとは、課題解決力という言葉を使うと、現状把握と原因把握をしないまま解決策を創ろうとします。結構多いんです。
それがとても問題だと僕は思っていて、場合によっては最初に策ありきで進んでいる場合もあって、都合のいいデータをとってくる。だから現状の原因把握を忖度なしでやらないと必ず無理が出て来ます。
まずは最近のデータと現状、原因集めをしておくこと。すると今まで問題だと思ったものが問題ではなくなったり、その逆もあるわけです。
少なくともそういう事を考えられる人が一定数増えていかないと民主主義という国の中では、いけないのだろうなと思いますね。

色々と文献もあたってみましたが、明治に改めて日本国が出来たときの思想が日本の場合見えないんです。尊王攘夷が最初にありましたが、それも半分が反故にされ、もう片方の国の制度を作る為には不十分でした。
西洋の場合は思想があって政治システム、社会制度がある訳ですね。日本の場合は(中間層くらいからの)ボトムアップ式の思想が成熟する前に先にシステムと制度が入っているんでそれはちょっと問題だったのかなとも思いますね。
思想を成熟させないで社会の制度を定着させている。いや現実的な問題として当時は仕方なかったんでしょうけどでも、第二次世界大戦という大きな節目でも、似たような事が起こり、国のあり方を議論する憲法議論がタブー視されている部分もある。

答えを求める必要もないのかも知れませんが、日本の根底にあるものは何だろうな?とずっと考えています。
日本の根底にあるものは何だろうな?と考えています。


Q:岡本さんの思う日本の思想とは何ですか?

仏教や神道から素人なりに考えているんですけどね。
日本用にカスタマイズされているので、そのカスタマイズされていく過程に日本らしさが出ていると思っています。
神道と仏教が混ざり合うところが面白くて。日本は元々強制色の薄い士着的な神道が根底にあって、仏教が入ってきたら、当然戸惑いや対立も多少ありましたが、原理主義者ではあり得ないような混じり合った思想体系がぼんやりとできあがった。
その融通の利くようなところがとても面白い所で、世界では宗教対立が起こっているのに。仏教と神道が強制力の強い一神教同士だったら無理なんですよね。
仏教には神がいるのかって言ったら他の一神教のような神がいるわけではないので。だから神仏習合みたいなことがずっと昔からありますよね。この辺に原理的・観念的でなく、現実的というか、悪く言うと場当たり的というか、その辺は先ほどお話した明治期や今の日本などにも僕は通じると考えています。

除夜の鐘はお寺。初詣は神社。ですよね。その一週間前にはクリスマス。この辺が日本人の面白いところ。最近はハロウィーンまである。
あれが典型的ですよね。思想が無いのに形だけ入れてあんな風になっている。なのに特に問題視されない。(笑)

でも色々考えている中で見えてきたことですが、根底に流れているものが仏教の無常観だったり和だったりする。
その二つ、それ言っちゃうと面白くないっていうか、完結しちゃう。
何かを言っているようで何も言っていないのが無常観。全ての物事は変化していて当たり前。
和は、歴史の中で無常観を輪切りにしたら和があった。だからあれだけ忖度する社会なんですね。
この2つは相反するものなんですけど、それが同居しているのが日本の面白さだと思っています。


Q:みなさんにも質問しているんですが、岡本さんにとって生きるとは何でしょう?

鹿児島って社会科見学で小中高と知覧の平和記念館に行くんです。
僕が中学校の時に、上原良治さんという方の所感を読んでとても価値観を揺さぶられました。
ちゃんと自分で考えようと思ったんです。

あの時代に、上原良治さんは自由主義者と自分で言ってましたけど、思想を持っていたんです。
周りの価値観は、時によってすぐに変わるものです。

僕がイギリスに言った理由も色々とあるんですけど、いろんな価値観に触れたいなという思いがあったんです。
自分の目でいろんなものを見て、それで自分で考えて判断しようと思ってました。

生きるとは何なんでしょうね。

2年前に親しい友人を病気で亡くして、そこから生きるとは考えているようで考えないようにしている。
難しいんですよ。

自分なりに日々一生懸命生きてみて、最期に分かることなのかなと今は考えています。


Q:いろんな価値観に触れたかったのは何故ですか?

一回だけの人生で、体験や経験できる感情はそんなに多くはないんです。
自分と違う人たちと触れることで、自分にはない経験や感情を少なくとも知って理解することが出来るかもしれない。

普遍性みたいなものを観たかったんですね。
共通する部分は何なのか。こういう価値観の振れ幅があるんだなというのを知りたかった。

特攻記念館に行くと、自分とは全く違う価値観で生きている方々が、同じ世代にいたんですね。
自分の見ている世界はとても狭いんだなと思って。

そこは好奇心なのかもしれませんね。人間というのはどういうものなんだろう。


Q:なかなかやりたいようにやれない人も多い中で、やりたいようにやるって素敵なことですよね。

僕の大学時代の物理の先生は、とてもすごい方だったんですよ。
あらゆるものの原理が頭の中でほとんど理解出来ている方なんですけど。
この人自由だなって思った
んですよ。

何かをやるっていうときに、縛られないというか、制約がないというか。もちろんモラルとかはありますけどね。
やりたいときに、制約がないってとてもいいことだなと思って。

精神的に自由だし。なんでも考えられるし、捉われないし、これが出来ないからあーーではなくて。
制約なく自分に対して向き合ってやりたいことが出来るというのは、自分の可能性を広げていく過程の中で出てくるんだなと思います。

それは幸せなことですけどね。

もっと自由になっていいんですよ人間って。
もっと自分で考えて、判断できて。

それが出来るのは本当に限られた環境の下なのかもしれないですけど。
先人の方々のお蔭でそれが徐々に出来るようになってきている。もちろん格差が広がってきてしまっているのは我々に課された課題なのでしょう。

それでも、少しでもそういう人が増えてくれたらうれしいなとは思います。
だから、鹿児島でやっていることも関係しているんです。

そういう人間を増やしていきたい。結果的にそうなったら、自然になったらいいと思ってます。


※1ノブレス・オブリージュ:フランス語。一般的に財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴うことを指す。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5


記者:ものの考え方は人間にとって根底となる重要な要素。私自身も考えさせられました。この話は色んな方に聞いてもらいたいと感じました。刺激的なお話を沢山ありがとうございました。

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岡本尚也さんの詳細情報はこちら↓

【編集後記】
今回取材を担当した、阿久津と山田です。忙しく全国を飛び回っている岡本さんその原動力の秘密に出会えた感じです。取材中も話が止めどなく溢れ、今までの自分が出会ってきた世界、感じた世界を基に問題意識を持ち世の中に貢献している姿は素晴らしいなと感じました。なぜ学ぶのか?その問いを解決しないまま、日本の教育が行われている現状。何の為に学ぶのか?自分とつながった問題を解決していく人材が増えることで新しい社会が出来ていく。ものの考え方を底上げすることの重要性を深く感じました。そんな人材が増えていくことでより良い社会を創っていくことができると、未来の希望を感じワクワクのインタビューとなりました。
岡本さんの益々のご活躍を心より応援しています。

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この記事は、リライズ・ニュースマガジン “美しい時代を創る人達” にも掲載されています。


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