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7 weeks #20

2020.08.20

9:00
こどもたちを保育園に送って自宅マンションに戻り、エントランスに入ったところで、江東豊洲病院から電話。
ICUにベッドが確保できたのでこれから移るという。ついては病棟の荷物などを引き取ってもらう必要があるため、これから病院に来られるか、とのことだった。
仕事はなんとでもなる(と言える仕事に就いていることは本当に幸いだ)。夫に話をして身支度をし、豊洲に向かう。念のため、仕事用のパソコンを持って出た。
妹とM氏にも連絡を入れる。M氏はこれから向かうと言い、妹は今日は来られないとのこと。

10:00
病院に着き、ICUに案内される。エレベーターを下りると、一般病棟の明るさとは対照的に仄暗い廊下が続いていた。大きな自動ドアの手前で、すぐ横の待合室に通され、体温計を渡される。一般病棟よりも管理が厳しいのだ。真夏のアスファルトの上を歩いてきた私の体温は37℃を超えていた。自動販売機で飲み物を買ってクールダウンし、少し待ってもう一度測る。36.9℃。クリア。
遅れてM氏が来た。検温するとやはり37℃を超えていた。どのみち主治医が空くまで時間がある。クールダウンがてらM氏とときおり話をしながら、パソコンを広げて少し仕事をした。
それから意を決して、父の旧知の友人であるK氏へのメールをしたためた。父の高校時代の同級生で、九州から一緒に上京してずっと付き合いがあり、娘の私のことも幼い頃から知っていてくれる、一番親しい友人だ。父が自力で連絡が取れない状況になったら私から連絡する、と事前に父と合意していた。

11:00
主治医のM医師が来て、ICUの中の家族説明用の個室に通される。

腎機能の値がさらに悪化したので透析を始めること。透析はこのまま取れない可能性もあること。
呼吸状態もさらに悪化しているので、人工呼吸器を装着しても良いかもしれないということ。
ただし、装着してしまうと、心臓が止まった場合に心臓マッサージができず、救命が難しくなること。
また、人工呼吸器も装着したままこの先外せない可能性もあること。
昨日の今日で、また人工呼吸器についての意向を聞かれたので当惑した。
そのことを率直に伝えると、乗り切れる可能性があれば医師の判断で人工呼吸器を装着することにし、厳しければ無理には使わないことにしましょう、と主治医が言った。

それから投与している抗生剤について、効果が現れないので、種類を変えるとのこと。
病状に関して知りたければ、平日11:00から13:00の間に病院の代表番号に連絡して、ICUの看護婦長に繋いでもらえば話が聞けるとのことだった。婦長の名前をメモする。

その後ICUの中に通され、父のベッドに案内された。本人に会えるとは思っていなかったので驚いた。
室内は予想に反して明るく広い。窓に沿って区画が作られており、1人1人のスペースはそれなりに広かった。考えてみれば、その場で医師や看護師がさまざまな処置をするのだから当然だ。
父はいよいよ普段着から入院着に着替え、透析の装置を装着されてベッドに寝ていた。看護師が「ご家族が来てくださいましたよ」と声をかけると返事をして、目を開け、それから

「よし、2日くらいでなんとかする」

と言った。

昨日の時点ですでに、普通なら会話できる状態じゃないと言われていたのに。この期に及んでなお、そんなことを言える父の意思の力。

けれど私は咄嗟に何を言うべきかわからず、曖昧に笑うしかなかった。
今思えばポジティブな声かけをすべきだったのだろう。普通ならこういう状況では禁句とされている「頑張れ」も、父にとっては純粋なエールとして歓迎されたかもしれなかった。

「2日」と父が言ったのも、後になって思えば決して非現実的な話ではなかった。実際、医師は抗生剤が効けば2-3日で改善の兆しが出ると言っていたのだ。だから医師や看護師の説明を聞いて理解して2日と言ったに違いない。それにICUにいる間は感染症の治療に専念することになり、がんの治療は進まない。だから1日も早く感染から回復してがん治療を再開したいという意味だったのだ。
後になれば分かる。でもあまりに展開の速すぎる現実を目の前にして、そのときの私は頭と心がついていけていなかった。

その一言が、結果的に私が聞いた父の最後の肉声になった。そしてそれに答えられなかったことは、後々の私に後悔として長く残った。

12:00
M氏とともにICUを後にし、父が一般病棟に持ち込んでいた種々の荷物を受け取る。
看護師が「病棟で預かることはできないんです。ICUを出ても同じ病棟に戻ることになるとは限らないので」と理由を説明してくれた。ICUに何日くらい入ることになるのか、戻ってくることができるのか。モヤっと考えながら、先ほどしたためたK氏へのメールの送信ボタンを押し、荷物を持って父のマンションに戻る。

父は入院するのに、黒い革製のしゃれたスーツケースを持って行っていた。一時退院していたときだったか、私が「これで病院に行ったの?」と聞いたら「かっこいいでしょ」と言った。
一般病棟にいる間は一貫して自分の持ち込んだ普段着(ポロシャツや短パンなどのカジュアルウェア)を着ていた。
父は病人然として見えるのも、年寄り扱いされるのも嫌だったのだ。その気持ちは痛いほど分かる。心が落ち込んだり老け込んだりしないように、いつもの自分でいたかったのだろうし、医師の余命宣告を受けていてなお、父は「治す」つもりでいたと思う。でもその気概を後押ししてやるには、私は圧倒されすぎていた。冷静を保つので精一杯だったのだ。

持ち主の元を離れて戻ってきたスーツケースを父のマンションに運び込んでM氏と別れた。

13:30
軽く昼食を取る。ICUを出る時に送ったK氏へのメールには、すぐに返信が来ていた。予想通りだったが、父はK氏に何も伝えていなかった。仕事のことや趣味の音楽活動のことで、入院してからも普通にメールのやりとりしていたと言う。K氏は驚きとショックを隠さず、それから連絡したことについて感謝してくれた。それに続いていくつかの質問と提案(病状や余命、同期に医師がいるが話を聞いてみるか?など)があった。どうやらすぐに仲間内に連絡してくれたようで、その行動の速さに感服したしありがたかったが、希望のない話しかできない。事の発覚以来ずっといなしてきた感情がコントロールを失いそうになるのをぐっと堪えた。

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