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「何によって憶えられたいか」の問いが、私に努力を続けさせてくれる

毎日noteを更新するようになり、さすがに一ヶ月以上も経つと、周囲の方々に「毎日がんばっているね」とか「読んでます」とか声をかけていただけるようになってきました。

文章を書くことは、楽しくて苦しい。
「たのくるしい」と私は表現していますが、私にとってただただ楽しいだけのことではありません。私は私の言葉を書きたいと思っているので、どうしても内側をえぐる行為となり、毎回どろどろしたものや暗いものにも向き合わないとならないのです。
どろどろしたものでもあればいいけど、「空っぽで何もない自分」に気がついちゃったりすると、もう情けなくて苦しくなります…。

毎日続けられるのは、「愛」だけなのだろう

それでも私は書きたい。書くことが好きなのです。書くために調べたり考えたりして、自分と世界のことを少しずつ知っていくことが、楽しくてたまらないのです。

以前も、毎日文章を書くということを2年近く続けていたことがあります。でも、よく考えたらこの「毎日やる」ということ、食事や歯磨きなどの毎日やらざるを得ないことをのぞくと、継続できたことって書くことと読書くらいしかないんです。

毎日スクワットしようとか顔マッサージしようとか、決心することは何度もあれど、年単位で続けられたことなんてなかったんです。やっぱり人間、毎日続けられることって「愛」とか「偏愛」なのですよね。
息子も、ゲームとYouTubeを見ることなら毎日余裕で続けてます!

もしくは、「怒り」とか「呪い」かな。こっちはもう相当根深いものじゃないと…、私は今の所、こちらの感情は長く続きません。

今日、ツイッターからこちらのつぶやきの通知が来ました。つぶやいてくれたのはオンラインサロンの仲間であり、WEBサイトの制作のクライアントでもあるまいちゃん。つぶやきに登場するそうまくんも、サロン仲間です。

「ベースに愛がある人」として想起されるのは、たまらなく嬉しい! なぜなら、私にはここ数年ずっと心がけていることがあったからです。

私は、誰に、何によって憶えられたいか

「経営学」とか「マネジメント」と言えばのピーター・ドラッカー大先生のある本の中に、忘れられない一節があります。長いけれど、引用します。

私が13歳のとき、宗教の先生が、「何によって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。すると、「今答えられると思って聞いたわけではない。でも50になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよ」といった。

長い年月がたって、私たちは六十年ぶりの同窓会を開いた。ほとんどが健在だった。あまりに久しぶりのことだったため、はじめのうちは会話もぎこちなかった。するとひとりが、「フリーグラー牧師の質問のことを憶えているか」といった。みな憶えていた。この質問のおかげで人生が変わったといった。

・・・・

今日でも私は、いつもこの問い、「何をもって憶えられたいか」を自らに問いかけている。これは、自己刷新を促す問いである。自分自身を若干違う人間として、しかし、なりうる人間として見るよう仕向けてくれる問いである。運のよい人は、フリーグラー牧師のような導き手に、若いころそう問いかけられ、一生を通じて自らに問いかけて続けていくことになる。

(ドラッカー名著集4『非営利組織の経営』)

本はこちら。

「何によって憶えられたいかね」

数年前にこの言葉に出会えたことは、正直、幸運だったと思っています。

基本的には、他者が自分をどう思うかにフォーカスして生きたいとは思っていなくて、少なくとも自分にだけは嘘をつかずに生きていきたいというところを大切にしています。
だから、人が私を憶えていようといなかろうとどちらでも構わなくて、気持ちとしては坂本龍馬の「世の人は 我をなんとも 言わば言え 我が為すことは 我のみぞ知る」がしっくりきます。生まれてきたからには実現したいこと、たどり着きたい場所があるから。

けれど人は、私は、そこまでストイックに独りきりで努力を続けるなんて到底できません。意志の力に頼れないことも、科学が証明している。だから、どんな環境に身を置くかはとても大事なことだよということを、以前noteに書きました。

人はつながりから驚くべき影響を受けている。きっとこんな私も、まわりの人になんらかの影響を与えながら生きているのだろう。
そうだとしたら、私はどんな人たちに、どんな影響を与えたいのだろう? ドラッカーさんの言葉は、それを考えるきっかけをくれたのです。

たどり着きたい場所があるなら、やっぱり努力は避けてはとおれない。そのために私は、複数のコミュニティを必要とした。
どう考えても世界に名をとどろかせる必要は私にはなくて、これまでコミュニティの人たちに与えてもらったものをしっかり返せる、送っていける人になろうと決めました。

手の届く範囲の人たちに、「愛と笑顔の人」で憶えていてもらえるような自分でいよう。それが私の決めたことでした。
世界に向かって宣言するには気恥ずかしくあるのですが、何かを奪うよりは満たせる人になりたかったから、愛も笑顔もとてもしっくりきたのです。

満員電車の殺伐した雰囲気は、人々の不機嫌が伝染して充満したものだと思います。これだけ人は人から影響を受けあうのだから、私はできるだけご機嫌でいたい。そして、愛するからこそ言いにくいことも愛を持って伝えられる人でいたい。
これ、簡単なようで実は難しいことで、まったくできていないのです。

誰に、何によって憶えられたいかを考え続けることで、一人では到底続けられない努力を続けることができています。


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Yuka Shibayama
会社を経営したり、オンラインサロンを運営したり、秘書をしたりしているワーママです。


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