ハンギングロック

愛は等価交換できない

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高橋源一郎×東浩紀「平成のおわり、文学のおわり # 2を見た。言葉の取り扱いについて常日頃気になっていることー言葉は言葉そのものとして、固定化した1つの意味で取り扱われるーことについて言及されていてとても興味深く見た。

つねに一対一対応のように、黒といったら黒、ダメといったらダメというような解釈の余白のない世界はシンプルで誤解すら生まれないし、合理的だし、効率がいい。そもそも言葉の生まれたのは情報伝達を行うためなのだから、それは本来の姿に立ち戻るだけなのかもしれない。けれど、はたしてそれだけでわたしたちは本当にしあわせなのだろうか。言外に含まれる暗喩や謎に心ときめかせ、また、膨大な暗号のようなメッセージでひととの親交を深め、その中に無上の愛を感じ取ってきたわたしにとって、余白のない言葉ばかりに囲まれてしまうことはやはりさみしい。

イベントのなかで「贈与」についても触れられていた。資本主義的な等価交換ではなく、見返りを求めずただ与えるという「贈与」のあり方は、資本主義に対する抵抗の方法であるという東さんの指摘は、わたし自身の活動においてもひとつの大事なテーマであると感じた。

先日、花の絵をネットプリントでポストカードに印刷できるというささやかな企画をした。データをネットプリントのデータベース上に上げれば、1週間どこでもプリントできるというシンプルなものだ。ネットプリントにかかる費用は純粋にプリント代だけで、どれだけプリントされてもわたしのところにお金が入ることはない。まさに「贈与」である。

この企画では本当にたくさんのひとがさまざまな場所で楽しんでくださった。たくさんコメントが飛んできたし、喜んでくださっているのがネット越しに伝わってきた。(本当にありがとうございます、今もなおみなさんの言葉に励まされています、ラブ)

資本主義の社会で生きながらも、「贈与」の精神を持つ。お金はもちろん生きていくために必要で、ご飯を食べるのにも、画材を買うのにも、展示を行うのにも多くのお金がかかる。だからなによりもまず、生きねばならない。そして作らねばならない。自分だけのサンクチュアリに留まっていては、自分のやりたい「贈与」の形にたどりつけないから、わたしはできるだけたくましく資本主義の社会に適応し、生き、本当に望む場所へ行く必要がある。

さっそく読もうと思う。




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