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それでも、踏み出す方がいい

ここしばらく、自分の軸について考えさせられるできごとが続いて、頭がいっぱいになっていた。そんなタイミングで、気の置けないひとたちとおいしい魚を食べた。閉店間際のプロントで珈琲を飲んだあと、彼らと別れて深夜の渋谷の街をうろうろした。

眠いのに、あたまの中ははっきりしていた。

ひとの気持ちに想いを馳せたり、共感したりしていると、そのうちに自分がどうしたいかが霞がかかってしまうことがある。こうしたらきっとあのひとの力になれるんじゃないかとか、他者のことを最大限に考えることが、自分の最良の選択のように思えてくる。

もともと自他の境目があいまいだったこともあって、感情的になることがあるとよりいっそうその境目がとけあって、自分は他者のためにこそ生きるべき、それにこそ価値があるというゆがんだホスピタリティ精神に拍車がかかる。わたしが我慢してうまくいくならそれでいい、いままで所属していた組織の中ではそれがつよく求められたし、そんなものかと思って生きてきたように思う。

でも、なんだかもう、それって違うなーと思う。わたしは他者を尊重することの大切さと同じくらい、自分のことを尊重する重要性を理解したし、他者への敬意を払った上で自分が最高に楽しいと思えることを選択することが、一番いいと断言できる。

社会には、わたしの代わりになるひとはいくらでもいるけれど、わたしの人生でわたしを生きるのはわたししかいない。わたしは、短期的にひとのためになるよりも、長期的にひとの心をあたためられるひとになりたい。人生は短いようで長いから、孤独な夜だって誰の人生にもきっと数えきれないほどやってくる。そのときにささやかな支えになりたい。棒きれみたいなのでも、ないよりマシだろう。

あるとき、作家になりたいんですか?と聞かれた。いやいやわたしなんかそんな大それたこと考えたことありません、とはもう答えなかった。なりたいです、そのために毎日書いていますと表明した方がずっといい。うまく言えなかったけれど。

わたしはわたしのできることをやるし、それについてなにか言われても、たとえ興味すら示されなくても、わたしはわたしのためにやることに変わりはない。

青山塾に通っていたころを思い出してみる。イラストレーターになれたらいいな、でもそんなの無理だろうなと思っていた。けれど、いま思うとそれはまったく大それた願いではなかったと思う。続けていくために、よりよくするにはどうするかを考え続ける方がずっと孤独で、不安で、果てしないのだろうと、想像できるようになってしまったから。だから、すばらしい仕事を生み出し続ける先輩たちを心から尊敬するし、そうなりたいと思う。

持って生まれたものを、ひいては自分自身をつねに信じ愛し続けることはむずかしい。一寸先は闇、思いがけない悲しみや絶望もある。けれど、それでも一歩踏み出した足元に、小さな芽はかならずある。そう信じて踏み出す。

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