「つらい」ことを「つらい」と言えるわたしに。
今日、大切な人と話した。
何年かぶりで2人でじっくりと話すのは初めてだった。
この数年に起こったことをつとつと話して、ただ、「そうだったんだね」「うんうん」と聴いてもらって、
「本当に色々あったね。よく、頑張ったね」という言葉をもらって、
気づいた。
もう、どれくらいかわからないほど流した涙も、枯れ切ったと思っていたのに、久しぶりにポロポロととめどなく流れた。
わたしは、ずっと、傷つき、悲しい気持ちを抱えていた。それを自分の外に出せなくて、苦しかった。
なぜ、出せなかったんだろう。
この選択をしたのは、全部、「自分自身」だからだ。
だから、弱音は吐かない。悲しい寂しいつらいと言葉にするのもダメだ。だって、自分で選んだのだから。それによって、悲しんだ人、苦しんだ人、迷惑かけた人、たくさん、居たのだから。みんなそれぞれ辛かったのだから。わたしだけじゃないんだから。被害者ぶりたくないし、被害者でもないし、被害者ぶっていると思われたくない。
でも、気づいたのは、「わたしは、傷ついて悲しくて寂しくて苦しい気持ちがある」ということを言えず、知られなくて、つらかった。
勝手に傷ついてもいい。
悲しかったりさみしかったりすることもあるだろう。
でも、それらを安心して「さみしい苦しいつらい」と言えず、「自分の決めたことだから」と、「大丈夫、わたし大丈夫」と言い聞かせて、やり続けてきた。
でも、本当は、ただ、聴いてほしかった。
「つらかったんだね」「頑張ったね」と。
自分が決めたことだから、自分が招いたことだから、源は色々あれど、自分が決めたことだから「悲しみや寂しさや苦しさを表現してはいけない」「他に漏らしてはいけない」理由はどこにあるんだろう。
自分が自分に、それを許していなかった。
「自分で決めた事なんだから、頑張るべき」
「弱音なんか吐いちゃだめ」
出していいって、自分に許可出来なかった。
いつ出てしまうかわからないから、なんかいつも緊張していた。
口を開いたら、何かが漏れ出ちゃったり、涙がこぼれることが怖かったからだ。
それも、今日、気づけた。
そのままで、いい。出したらいい。かっこわるいことなんかない。
そのわたしを、受け止めてくれる世界がある。たくさん、泣いていい。
「こんなに泣くわたしにビックリしないですか?」と聴いてしまうわたしに、「いいよ〜〜いいよ〜〜もっと泣いたらいいよ〜〜^^」と笑ってくれた。
わたしは、安心できる世界でありたい。
そして、一人では、生きていけない。
わたしのように、奥歯をくいしばって想いがこぼれ出ないように必死に塞き止めている人に、「苦しかったね」「よく頑張ったね」と声をかけられる人でありたい。
何を感じてもいいし、何を感じるのも、その人の自由なのだから。
感じたことに、かっこ悪いことなんか、ないのだから。
それをもっともっと、世界に対してオープンに出せるわたしになったら、きっとわたしにとって「世界は優しい」になるだろう。
世界を、疑わない。世界は優しい。
わたしがそう思うところから、始まる。
今日は、ただただ、泣き続けた。ふとプロフェッショナルの録画観て、人が何か挑戦してるシーンにさえ涙がとにかく溢れた。
わたしは、やっぱり、人が大好きみたいだ。自分のかっこ悪さや弱さに抗いながら、一生懸命生きよう生きたいと前を向く、この人間にしかない美しさが、ずっと変わらず、大好きみたいだ。
自分のそんなところも、嫌わずに愛したい。不器用で、メンタルの上下がとても激しいけれど、でも、一生懸命生きようとしている自分を褒めたい。
自分のことは、自分にしかわかってあげられないんだから。自分しかほんとうには拾ってあげられないのだから。無視したり押さえ込むと、息が苦しくなるのだから。
とりとめないけれど、優しい一日に、ありがとう。嬉しい。感謝。
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