自虐のプロを目指して
プロ・アマ問わずいろいろな人のエッセイを読んでいると、常々思うことがある。
それは、「読ませる文章を書く人は、ほぼ例外なく自虐がうまい」ということだ。
江國香織であれば、方向音痴。
角田光代なら、偏食や生活習慣。
向田邦子はせっかちな性格や、独身であるという事実。
朝井リョウはお腹がとてつもなく弱いことや、自分の容姿。
星野源に至っては、その大部分がありとあらゆる自分の欠点に基づく話である。
わたしが偏愛するそれらの文筆家たちはみな、総じて自らの欠点を熟知し、それを上手に料理して読者に完食させる術を知り尽くしている。
決して嫌味でなく、ネガティブになりすぎない程度にうまーいことまとめているのである。
自分のだめなところを延々綴れば、読者をげんなりさせてしまいそうなものではあるが、そうはさせないところがやはりプロなのだ。
まずは、自虐ネタとして欠点や失敗談を晒す。方向音痴でも口下手でも恥ずかしかったことでも、なんでもよい。
すると、この時点で読者は「作家に上から見られている」という意識をなくせるので、スッと気持ちよく話の中に入ることができるのだ。
それさえ達成できればもう作家の勝ちみたいなもんで、あとは欠点を克服しようが失敗談が成功に繋がろうが、最後まで気持ちよく読んでもらえる確率はぐっと上がると考えられる。少なくとも、わたしはそうである。
たぶん誰しも、「すごいでしょ」「かっこいいでしょ」みたいな文章は読みたくないと思うのだ。
もちろん、わたしも例外ではない。こないだの記事に自己啓発本があまり好きでないと書いたのも、この気持ちから通じている。
いや、すごいよ? すごいんだけど、端的に言うと「なんか、偉そう」と感じてしまい、無意識に壁をつくってしまうからなんだろうなあ。
というわけで、先人に倣ってわたしも自虐を武器にできればと、複数回にわたって試行錯誤をくり返してきたのでありました(というか現在進行形)。
ところで、先日びっくりした出来事があった。
わたしは10月から、とある書店が開催しているライティングゼミに参加している。
その第2回目の講義で、前述とほぼ同じ内容の話がでてきたのだ。
簡潔に言うと、
・まずはとことん、へりくだれ
・サービス精神を徹底しろ
とのことであった。
そのためにはやたら複雑な形容詞を使わないとか(ドキッ)、「読ませてやろう」という姿勢を捨てることが大切なのだ、と。
詳細は書けないのだが、あまりにも自分がこれまで通ってきた道と同じことが多すぎて本当に驚いた。容赦のない指摘にグサグサ突かれ、全身に激痛が走ったほどである(それは嘘)。
しかしながら、考えれば考えるほどにその通り。
「無名な一般人のエッセイなんて誰も読まない」
そのことは以前から気づいていたけれど、具体的にどうすればいいのかは依然わからないままだった。
芸能人ってだけで何万人にもブログを読んでもらえるし、本もばんばん売れるからいいよなあ、なんていじいじと考えていた時期もあったけれど、それは「その人自身」の価値がすでに確立されているからこそ成し得ることであったのだ。
もはや文章力云々という次元ではない。「文章を読んで判断」なんて負荷のかかることをしなくても、そこにはもっとわかりやすい読む理由があるのだから。人気が出るのは当たり前なのである。
だからこそ、その他大勢である我々は、自虐のプロにならねばならない。
まずは「読んでいただく」ために。そこを突破できない限り、話は永遠に始まらない。
いかに読者に気持ちよく読んでもらえるか。
ただ自分が書きたいことを書き続けても、読者の存在がなければ、それはただの自慰行為にすぎない。
わたしはそんなの、絶対にいやだ。
書きたいことを書く。でも、自分だけが気持ちいい文章を書くのはもう終わりにしたい。
日々実感している「読んでもらえること」のありがたさ。次のエッセイに書こうと思っているテーマでもあるのだが、こんなしがない文章に時間を割いてくれる人がいるからこそ、わたしは今も書くことから逃げずにいられている。
読者がいることのありがたみを何度だって噛みしめて、今日もあかるくサービスに励むのだ。
いつか、自虐のプロになることを目指して。
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