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秋一番が吹いた朝

今朝、家から一歩出た瞬間に「ウワーーー!」という気持ちになったのは、決してわたしだけじゃないはずだ。

空気が秋をまとっていた。
何食わぬ顔で。まるで、昨日までもずっとそうでしたよみたいな自然さをもってして。

季節の移り変わりかたというのは本当に、その瞬間まですっかり忘れているものだから、いちいちびっくりしてしまう。
夏には秋の乾いた風を忘れ、次の季節を迎える覚悟を決めぬまま秋は過ぎ、冬の間は春の空気の綻びかたを、どうしても思い出すことができない。21年もの間、何度も何度もくり返してきたはずであるにも関わらずだ。


今日、徒歩15分の距離にある最寄駅に到着するまで、ひとすじの汗も流れなかった。
日差しは相変わらず照りつけていたけれど、からりと澄んだ空気はもう考えるまでもなく秋のそれで、ときおり涼しい風さえ通り抜けていくものだから。

歩き始めて2分後には顔や首筋やスカートの中を汗がつたい、電車に乗り込む頃にはせっかく施した化粧の大半がはがれおち、時間をかけたまつげのカールはすっかりとれてしまう。うんざりしつつも仕方のないこととして諦めていた、ここ数ヶ月の日々を想った。

駅に着き、切符を買うため日傘を閉じたわたしはもう、ほとんど呆然としていた。
ちょっとまって。嬉しい、そりゃ嬉しいよ夏生まれのくせして夏をもっとも苦手としているわたしからすれば。暴力的な代謝の良さを持て余すわたしからすれば。
でも、ちょっとまって。早い、あまりに早すぎるて。

まだ全然、覚悟ができていない。
秋を迎えるには一年の中のいつよりも、強い覚悟が必要であるとゆうのに。


何の、ということを詳しく説明するのは大変難しい。
端的に言えば、切なさを受け入れる覚悟だと思う。破壊的な力を持って問答無用でやってくる、秋の切なさを受け入れ、受け止め、自分の中でやりくりしていくその覚悟。

ここ数年で頻繁に起こる感情ランキング・暫定一位は「切ない」であるのだが、秋ほどそれが顕著になる時期はない。
あ、知ってるこの空気、と考えるよりも先に肌が認識したその瞬間。だばーっとすごい勢いで記憶とか感覚とか匂いとかそういうものが一気に押し寄せよみがえり、いったいどれがいつの何だったかははっきりと思い出せぬまま、でも圧倒的な切なさだけはしっかりと輪郭をもって、からだ全部に満ち満ちる。

あの日の帰り道やあの夜に見た景色やあの瞬間の風や、あの放課後の音やあの教室の空気やあの空の色、あの朝の制服やあの河川敷の夕暮れ。
数え上げればきりがなく、それでいて忘れていることの方が多いのだろうと思う。

涼しい風が袖を抜けるたび、澄んだ秋の空を見上げるたび、ぎゅうっと胸が締め付けられる思いをする。
過去を一緒に過ごした人や場所や、その時を生きていた自分のことに想いを馳せる。

思い出は常に美化されアップデートされ、さらさらと手触りの良いものとして頭の中に重なってゆく。
ざらつきや湿り気や諍いは息を潜め、滅多に姿を現さない。実際は決してそうでなかったはずなのに、我々の脳味噌というのは都合良くできているものだなあ。

だから、そこで「切ない」なのだ。
どろどろしていて汚い、あるいは顔から火が出そうなほどこっぱずかしい記憶なら、切なさなどという微妙な感情が入り込む余地はないはずである。

すでにある程度均一にならされた過去だからこそ、強いよろこびとか悲しみとはまた違った感慨が生まれるのだろう。
いいことも悪いことも、嬉しかったこともつらかったことも関係なく。

それはそれで、なんだかさみしいような気もしてしまうけれど。


21年分の切なさを背負い、22年目の秋へと足を踏み出した。
そんな8月の朝のこと。


#エッセイ #秋

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