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わたしがエッセイを書く理由

「なんでエッセイなの?」
「そもそも、エッセイってなに?」

エッセイを書いていることを話すと、このような反応をされることが非常に多い。

「エッセイスト」ってそれ単体で成り立つ職業ではまずあり得ないと、わたしは思っている。

俳優や歌手などの有名人や文筆家、起業や闘病などインパクトのある経験をした人、はたまたぶっ飛んだ私生活を送っている、あるいは並外れた文才を持ち合わせた人。エッセイストとして名を馳せ、多くの人に読んでもらえる人というのはそんなところではないだろうか。

わたしは、そのどれにも当てはまらない。
突出した才能も、稀有な生い立ちも、さらには美貌もお金もない。ないない尽くしの凡人大学生だ。

なのに、どうしてエッセイストになりたいのか。
今回は、それをお話ししたいと思います。
そんなん興味ないわとか言わんと、良かったら読んでやってください。(お願いします…!)

自分がエッセイを書きたいということに気づいたのは、ごく最近のことである。

もともと、エッセイを読むのが好きだった。
本といえば小説ばかりであったため、手に取るのは大抵小説家のエッセイだ。

いつもは「小説」という物語の作品でしか知らなかったその人の、私生活や好みや人となりを垣間見る。
それば、言わば「学校の先生を近所のスーパーで見かけた(しかも彼女らしき人と一緒!)」のような、自分にとって絶対的にオフィシャルなもののプライベートを覗き見するようなわくわくを伴うおもしろさだった。

特に意識して読んでいたわけではなかったのに、気がつけば図書館に行って借りる本の半数ほどを占めていた。
自覚したのは「あんたエッセイ好きやなあ」という母の言葉ゆえである。

その同時期「文章が書きたい…でも何を…」ということで、わたしは日々悶々としていた。
小説家に漠然と憧れているけれど、まず小説を書いていないし想像力も豊かでない。じゃあどんな文書を書くのが好きなのかと考えると、それは自分の話なのだった。

自分の思ったことや感じたこと。心を打たれた話。提言とまではいかずとも、社会現象や周囲の環境について物申すこと。
なんだかすごく子どもっぽいようだけど、そういうことを話したり書いたりしている時が、わたしはとても楽しいのだ。

それゆえに、こう思ったのだった。

「わたしは、エッセイストになりたい」

しかしながら、間髪入れず「凡人のエッセイをいったい誰が読んでくれるのか」という壁にぶち当たることになるのである。(もちろん現在進行形)。

先ほど「小説という物語の作品」と書いたけれど、エッセイという私生活のノンフィクションもまた、かたちにすることで一つの作品になり得るのだ。

わたしがよく読むエッセイは、確かに著名な人のものが圧倒的に多いけれども、そこに書かれている内容は必ずしも非凡なものではない。

連日テレビに出ているような芸能人だって、作品がばんばん映画化されている小説家だって、歴史に名を残すような脚本家だってみな、私生活はわたしたちとなんら変わらない(ように見せているところは多分にあるとしても)、平凡なものなのだ。

些細な失敗。生活の苦悩。ささやかな喜び。
よくあるような、わたしたちの身の上にも十分起こり得るようなことばかり。

どう生きるかではなくて、どう物語るか。

いちばん大切なのは、そこなのだ。
エッセイの魅力はそれに尽きると思う。

自分の人生は平凡だと感じていても、つまらない人間だと思っていても、切り取り方や語り方を工夫すれば、それは絶対に物語となる。

「自分の人生の主人公は、自分自身!」なんてこっぱずかしいことは言い出す気はないけれど、たとえば脇役なら脇役の、裏方なら裏方の物語が間違いなくそこにある。そこっていうのは言うまでもなく、自分の生きてきた道のりの中に。

それってちょっと、かっこよくない?
なんて、思いやしませんか。

noteの投稿や、その前にやっていたブログを読んでくれた人から「おもしろかった!」と言ってもらえたことが、有難いことに何度もある。

それはとても嬉しいことで、でも、決してわたしがおもしろい出来事にたくさん出会っているからというわけではない。

ごく普通の平凡な日々を過ごしていても、どこに光を当て、何を感じるかによって断然おもしろく感じられる。(このおもしろいは、funではなくてinterestingのことです。)

エッセイというのはノンフィクションで、実際に起きた出来事や思ったことを書くものではあるけどしかし、事実をただのんべんだらりと書いていてもおもしろくない。

だから、多少の誇張や脚色をすることになる。
もちろん事実はそのままに、自分の感情を大げさに表現するという感じ。
それは、ちょっといい感じに見せるため、写真にエフェクトをかけるのとおんなじことだとわたしは思っている。

ある本の解説にて、強く感銘を受けた文章があった。

「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、
それについて物語れば、耐えられる。」

もうなんべんも言っていることなので、いつも読んでくださっている方には申し訳ないのだけど、わたしは負の感情を書き出すことで、なんとか生きながらえている人間である。

だから、すごくわかるのだ。

負の感情を文章にすることで昇華してやらないと、自己嫌悪とか罪悪感とか、そういうどろどろしたものに飲み込まれてしまう。
せめてもの感情の供養というか、なんとか意味を持たせるために。たとえそれが自己満足に過ぎないとしても。

フリーペーパーや広報誌の記事を書くため、飲食店などを取材したことが何度かある。
それ自体はとてもおもしろいことだし、いい経験だとは思うのだけれど「なんか、違う」と感じてしまうのはやはりそういうことなのだ。

「私は、聞かれる側になりたい」

深夜ラジオのパーソナリティをしていた頃、aikoはそう思っていたそうだ。
ゲストの話を聞くだけでなく自分の話をしてしまうため、「君の話はいらない」とプロデューサーに言われたのだという。
あるテレビ番組の中でぽつんと漏らしたその言葉を、わたしは忘れることができない。

いつかわたしも、聞かれる側に。

先月誕生日を迎え、わたしは21歳になった。
今年一年の目標は、

・文章で何かしらの賞をとること

あるいは、

・文章を書くお仕事を貰うこと

です。

賞をとるには応募し続けるより他にないけれど、お仕事ってどうやったら貰えるんだろう。
極論いまは書きたいことじゃなくてもいいから、とりあえずわたしの人間性か文章力を買われたい。そんな気持ちではちきれそう。

そんな厚かましいことこの上ない想いを胸に、試行錯誤をくり返しながらnoteを更新する日々なのだった。

ちょっと真面目でおもんなかったかもしれないのに、最後までお付き合いくださってほんとにありがとうございます。
いつも読んでくださっている方に生かされているような人間です。


#エッセイ #言葉

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