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初夏の夜の悪夢

「死ぬほど」と形容できるくらいの強い感情が、わたしの中にはふたつある。

一つめは、すきな人を好きだと想う気持ち。
そしてもう一つは、この世に存在する虫たちに対する、たいへん激しい嫌忌である。

と始まるエッセイを2年前の9月に書いたのだが、寸分たりともこの頃と気持ちが違っておらず、我ながらちょっと驚いた。

初夏。
今年も彼らにおびえて過ごす季節がやってきたのだ。

今の部屋に越してきたのは2ヶ月と少し前、3月末のこと。
対策はその頃から万全を期していた。引っ越し2日目には部屋のいたるところにブラックキャップをばら撒き、スプレーはすぐさま使えるよう開封した状態で設置(でも、使わずに済みますように)。

あとはゴミをこまめに捨てる、シンクに洗い物を溜めない、ちゃんと掃除する、そして日々祈りを怠らないこと。

実際わたしは大まじめに、毎日祈りつづけている。
百歩譲って、いてもいい。しかしどうか姿を見せてくれるな、お互い穏やかに共生していこうじゃないか、と。

しかし、昨夜。

そろそろ寝るかと電気を消し、ベッドに横たわって携帯をさわっていたときのこと、キッチンから不穏な音が聞こえた。

はじめは気のせいかと思った。
袋の中のゴミが何かの拍子に動いたとか、家鳴り(温度や湿度のせいで家が音を立てることらしい)とか、そういうやつかと思っていた、いや思おうとした。

しかしながら、少し間を空けて耳に届いてくるそれは、かなしいくらいに羽音だった。まるで虫が末期に立てるような。

あのときの感情をどう形容すれば良いだろう。
絶望。反射的に涙が出た。ほんまに無理なんやけど。

時刻はすでに深夜2時半。
縋るような気持ちで恋人に電話をかけると「過敏になりすぎかもよ?」「お布団かぶってたら大丈夫」と言われたので、それもそうかと思い直し、音をまぎらわすためにテレビをつけて、わたしは少しまどろんだ。

午前4時半。突然、浅い眠りから目が覚めた。
理由は不穏な物音。しかもさっきより近い。
反射的に音の鳴る方へ目をやると、レースカーテンと窓の隙間でなにかが暴れているのが見えた。

大きさからして多分、それは恐れていた彼ではなく、でも羽のついた虫であることは確かで、わたしはかすかな安堵と大いなる絶望にふたたび襲われた。
やっぱり気のせいなんかじゃなかった。なんか、いる。無理なんやけど。

どうすることもできなかった。
わたしには立ち向かう勇気などなかった。どうか朝になったら、どこかしらから抜け出して、いなくなっていてくれますようにと願いながら、 無理やり眠るより他になかった。

いい子にするから、どうかお願いします。
笑えないくらいの切実さでそう祈りつつ、わたしは強く目をつぶった。

寝不足の今朝。
トイレまでの道のり(大股で五歩)がこわくて、わたしはベッドから降りられなかった。
もしかしたらどこかに何かが落ちているかもしれない。その可能性は恐怖でしかなかった。

すみやかに母に電話をかけた。
事情を説明すると、「あ〜それ黄金虫(あえて漢字)かもしれんなあ、洗濯物にくっついてたんちゃう?」などという。彼らもまた夜行性だそうだ。

電話をつないでいてもらい、おそるおそる部屋を点検するも、その姿はどこにも見当たらなかった。ひとまずホッと胸をなでおろす。

と同時に、あまりの情けなさから言葉が口を突いて出た。

「わたし、このままじゃあかんと思うねん。日常生活に支障をきたしすぎる」

実際、今朝目覚めると、ストレスを感じたときに出るタイプの蕁麻疹が内腿に広がっていた。

「うーん、あんな」

一般論など飲み込み尽くしてもう効かない。
そんなわたしの虫嫌いっぷりを熟知した母はこう言った。

「虫にとって、カーテンの隙間が居心地いいと思う? あの子らだってな、来たくて来てるわけじゃないんやで」

母は続けた。

「もしかしたらまだ子どもかもしれん。あの子らにも家があるんやから、帰りたいに決まってるやんか。
やから、お母さんのおる場所にはよ帰りーって思いながら、強い心で追い払ってみ」

好き……と思った。なにそれ好き。

まっぴるまの強気な状態で見ると、子供騙しの馬鹿げた考えだと思えるかもしれないけれど、「深夜」「独り」「非常事態」という局面において、なにより心の支えになるのはこういった考え方なのである。

すごく良いと思った、ありがとう……と心からの気持ちでお礼を言い、その後実家で暮らす愛うさぎの様子をビデオで写してもらって、わたしは穏やかな気持ちで電話を切った。

持つべきものは娘のスペシャリスト、母である。

季節はこれからが本番だ。
高望みはしない。同じ時代に同じ場所で生きているのは仕方がないから、どうか遭遇せずにすみますよう。

そしてどうか、まちがっても我が家に侵入してくることがありませんよう。
そのためならなんだってする、とすら思ってしまう。そんな初夏の夜の悪夢であった。


#エッセイ #夏 #初夏

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