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靴擦れしたらば人魚姫

痛みほど鮮烈な感覚は他に無いと思う。

それも、物理的な痛みでなければいけない。
胸が痛い、良心が痛いということになれば、切なさであったり申し訳なさであったりと、余分な感情の方が上回ってしまうからである。

朝、家を出て1分も歩いた頃には、もう後悔し始めていた。
おろしたてのスニーカーに、パンプス用のごく浅い靴下を合わせたのがいけなかった。アキレス腱あたりの皮膚にローカットスニーカーの布地が擦れ、痛くて痛くて仕方がない。

瞬時に頭を巡らせる。
家を出たのはいつもと同じ時刻。つまり、かなりぎりぎりである。そうこう考えながらも家から遠ざかっているのだから、いったん引き返して靴を取り替えていては確実に遅刻だ。
覚悟を決め、内心這いずるような気持ちで駅へと歩を進めてゆく。

歩くたびに針を刺すような痛みが走ったという人魚姫もこんな気持ちだったのかしら、などと考えてしまうあたり、どうも夢見がちなところがある。

しかし現実は、人魚姫が聞いて呆れる不恰好。
それで痛みが和らぐわけでもなかろうに、局部をかばいたい一心から、どうしても膝を突き出すような歩き方になってしまう。
ようやく駅に着いて電車に乗り込み、ほっと息をついたのも束の間、ホーム乗り換えは地獄だった。

すごく良く例えるのであれば、まるで生まれたての子鹿。
痛いとわかっているから、痛いぞ、痛いぞと覚悟を決めたうえでおそるおそる足を踏み出す。すると、大げさに予測していれば多少はましだろうと思うのに、物言えぬほどフレッシュな痛みがご丁寧に都度走る。

それやのに、階段で降りて上がれとかいう。
通勤ラッシュの新宿駅。行き交う人の波に揉まれながら、絶えず痛いやらやるせないやらで、涙がこぼれそうであった。

なんとか降車駅にたどり着き、会社に向かってふるふると歩いていると、周りの人たちが羨ましくて羨ましくて仕方がない。

どいつもこいつも、すたすた歩きやがって。
多分だれも靴擦れなんてできていないんだろう。さわやかな歩調。晴れやかな表情。昨日までのわたしが当たり前に手にしていたものたち。

失くして初めて気づく幸せが、狂おしいほど恋しかった。
わたしもすたすた歩きたい。歩くたび走る鮮烈な痛みは、心なしかだんだん強くなっている。

コンビニに駆け込み(もとい、よろめきながら入り)、くるぶしまでしっかり守ってくれる靴下を買う。
370円。ちっともかわいくない靴下に払うにはあまりにも惜しいが、背に腹は変えられぬ。

デスクに着くなりかわいくないやつに履き替え、もうこれで大丈夫だと意気揚々、立ち上がって歩き出してみるも、えっ全然まだ痛いやん?

全然まだ痛かった。少しも和らいだ気配はなく、働く気力が一気に失せる。
それでもなんとか午前中を乗り切り(終始デスクワーク)、おっかなびっくり歩きながら再びコンビニに行って絆創膏を買った。

休憩室の椅子に腰掛けて靴を脱ぎ、さてどんなひどいことになっているのかと靴下をめくる。

するとそこにあったのは、拍子抜けするほど小さな小さな傷であった。

目を凝らして見ないと、どこにあるのかすらよくわからない。あんっなに痛かったのに?
やっぱり何事も大きさで測るのはだめだよな、とわかったようなことを独りごちた。

たしか小川洋子さんの小説だったと記憶しているが、涙を採取するのが仕事だか趣味だかの主人公が登場するお話があった。

うろ覚えなので相違があれば申し訳ないのだが、涙の純度は「痛み」によって流れるものが一番高く、価値も貴重なのだそうだ。

そのときは「ふうん」としか思わなかったのだけれど、今日改めてその意味を痛感(「痛み」だけに)した。

あまりに痛いと、ほんとうにそれ以外なにも考えることができなくなる。
ある意味、頭がもっともクリアな状態であるとも言える。拭っても消えない些細な悩みや、行き場のない怒りなどが立ち入る隙すらもなくなるからだ。

惰性で常にもやもやと思考を巡らせる悪癖を持つわたしからすると、貴重な数時間であったのかもしれない。

とはいえあんな痛い思い、当分はまっぴらごめんだ。
人魚姫のように王子様が待っているのならば話は別だが、痛みと引き換えに向かう先が色気のかけらもない会社だなんて、まったく割に合わないではないか。


#エッセイ

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