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『愛がなんだ』が好きなんだ。

あなたが心の底から愛している小説は?

そう問われて真っ先に思い浮かぶのは、角田光代さんの『愛がなんだ』だ。
27歳・OLのテルコがマモちゃんに出会って恋に落ち、しかし恋人同士にはなれないままでひたすら想いを加速させていく、究極の片思い小説である。

物語の中では、特筆すべきなにかが起こるわけではない。
ただテルコは、とにかくマモちゃんのことが好きで好きでたまらず、時に、いや頻繁にちょっと行きすぎた行動をとったりもしつつ、マモちゃんはそれを受け入れたり突然拒絶したりし、そのうちマモちゃんには好きな人ができ、でもその恋愛もまたうまくいかず……。

と、並べ立ててみればどこにでもよくありそうな話。「好きです」「では付き合いましょう」から始まる時期を過ぎたころの恋愛を、つぶさに描いた小説とでも言えば良いだろうか。
テルコのぶっ飛んだキャラクターはさておき、それ以外の部分においては、ほんとうにありふれた話である。

その絶妙なありふれ具合と、残酷なまでのリアリティが、たまらなく、良い。
ほんとうに好きで好きで好きすぎて、ついにはこの小説をテーマに大学の卒業論文(28000字超)を書いてしまったくらいである。

わたしが卒業論文のテーマを決定したころと時期を同じくして、奇しくも『愛がなんだ』の映画化が発表された。
勝手に運命めいたものを感じつつ、原作への愛ゆえに(大丈夫かよ……)という疑念も正直、少なからずあった。このすばらしい作品を、安っぽい恋愛映画に仕立てられてはかなわん(何様)、と不安だったのである。

ところが、予告編が公開されるとたちまちその不安は吹き飛んだ。
「良いに決まってる」感が、そのときからもうすごかった。テルコとマモちゃんの絶妙な距離感、テルコの狂いっぷりにマモちゃんのクズっぷり、すみれの醸す唯一無二の存在感。

これは楽しみだと、長らく公開を心待ちにしつづけてきた。
そして今日、満を持して鑑賞のときがやってきたのである。

恋愛依存から抜け出せず、もうしんどいよっていう人に観てほしい。

生活を構成する一要素として、程よい距離感で恋愛してる人にも観てほしい。

だれかを好きになるってよくわからんわっていう人にも観てほしいし、恋だの愛だのばからしいって思っている人にも、ぜひ観てほしい。
とにかく、恋愛に携わったことのある or 今後携わる可能性のあるすべての人に、観てほしい。

登場人物のだれにも共感できなくても、だれとも似ていなかったとしても、こんな人たちもいるんだなって知ることで、世界の見え方がちょっと変わるかもしれない。
そして、変わった向こう側の世界を、前よりすてきだと思えるようになるのかもしれない。

鑑賞したあとでそんな気持ちにさせてくれる、ものすごく良い映画だった。
原作に忠実でありながら、映画にしか表現できない部分は、余すところなく魅力的に描かれている。

小説の中では文章で綴られているテルコの気持ちや考えが、映画の中だと、視線や表情やしぐさや、そんなものの端々にあらわれている。

それはもちろん、テルコを演じる女優・岸井ゆきのさんの実力に他ならないのだけれど、些細な行動のいちいちがテルコというひとりの人間をものすごく鮮やかに際立たせていて、そのことにわたしは感動すらした。

小説『愛がなんだ』への愛なら日本一だと自負しているわたしだが、そのディープな愛に負けないくらい、映画『愛がなんだ』もたまらなく好きだと思ったのだった。

原作でも映画でも、テルコはずっともがいている。それもばかみたいにまっすぐ、かっこわるいほど一途に、ひたすらもがきつづけている。
マモちゃんに好かれたい、マモちゃんのそばにいたい、その一心で。

テルコの友人・葉子に不毛な片思いをしつづけているナカハラは、最終的に「葉子を好きでいるのをやめる」と決めた。
しかし、テルコの中には「マモちゃんを好きでいるのをやめる」という選択肢はハナからない。

「マモちゃんを好きでいつづける」ことは大前提として、じゃあどうすれば少しでも自分の望む関係に近づけるのか。
それだけを必死に考えつづけ、はたから見ればちょっと恐ろしいほどの行動力で、テルコは次々それらを実行に移してゆく。

マモちゃんを優先するあまりに勤務態度がひどくなり、そのあげく会社をクビになっても「反比例して恋愛運が下がったら困るから」と言って仕事を探さず、マモちゃんの家の雑事を(頼まれていないのに)嬉々としてこなし、マモちゃんの思い人であるすみれに呼ばれれば、ためらいなくその場にマモちゃんを誘う。

それをやっちゃあだめだろう、と外からみている我々は思わず突っ込みたくもなるのだが、一度走り出したテルコはもう止まらない。

マモちゃんに突き放され、どん底状態のテルコを葉子が訪ねてくるシーンがある。

差し入れをもりもり食べるテルコを見て、葉子は「あんたのいいところは、どんなにつらくてもちゃんとごはんを食べて、冗談でも『死にたい』とか言わないところだよね」と言う。

その言葉に対して、テルコは平然と言い放つ。

「だって、死んだらマモちゃんに会えないもん」

そんな彼女の姿を、わたしはとてもまぶしいと思った。
まぶしくてイタくてほっとけなくて、愛おしい。

途中から、わたしはテルコになっていた。
ずいぶんイタい観客だなと思うがしかし、あのときの自分の感情を、それ以外の言葉では表すことができない。
そしてそれは、小説を読んだときに抱いた気持ちとはまた別のものだった。

感情移入とか自己投影とか、もうそんなレベルでは到底なかった。
テルコとしてマモちゃんの一挙一動に緊張し、テルコとしてひりついた気持ちで葉子ちゃんに言葉をぶつけ、テルコとしてナカハラの態度に苛立ち、テルコとしてすみれさんのことを嫌いになれずにいた。

突然自宅を訪ねてきてキッチンに立つマモちゃんの姿を盗み見、がまんできないといったふうに笑みをもらすテルコがあまりに切なくてたまらず、わたしは泣けて仕方がなかった。

そりゃうれしいよなあ、と思う。散々突き放され、他の女が好きだという気持ちをあらわにされ、それでも自分に会いにきてくれたという現実。
もしかして、もしかしたら、と思ってしまうよな。でも違うんだよなあ。苦しかった。

テルコとして得た感情に苦しくなり、またそれと同じくらいの強さで、テルコの幸せを心から願う。
わたしの中でまっすぐに共存しているそれらの思いは、もしかしたら究極の自己愛なのかもしれなかった。自分を幸せにしてやれるのは、結局のところ自分しかいないのだから。

原作とは違うセリフやシーンは随所に散りばめられていたが、特に印象的だったのはやっぱりラストシーンだ。

恋人にはなれなくても、どうにかしてマモちゃんのそばに張り付いていたい。そう願うあまり、マモちゃんの友人の恋人になってしまおうと決心するところまでは原作と同じだが、映画では、そのあとに短いカットが挿入されていた。

「33歳になったら仕事辞めて世界一周するんだ」
「33歳になったらプロ野球選手になるんだ」

そんな脈絡のない「33歳になったら」が口癖のマモちゃんが、動物園の象の檻の前で、テルコに「33歳になったら、象の飼育員になるんだ」と漏らしたことがあった。

ラストシーンのテルコは、象の飼育員になっていた。
それも、かつてマモちゃんと一緒に行った動物園で。

テルコは最後まで圧倒的にテルコで、でも彼女にしかできないやりかたでちゃんと前を向いているのだ。そう思ったら、なんだかとても救われた気持ちになって、また泣けた。
テルコは、穏やかな顔をしていた。たとえそれが束の間のことなのだとしても、わたしはとてもうれしかった。

最後に、昨年12月に提出したわたしの卒業論文より、考察部分を抜粋してみたい。
(ちなみに論文タイトルは「角田光代による「愛」の描写 ー小説『愛がなんだ』を例にー」です。)

「好きな人に好かれたい」。個人差はあれど、恋愛をするにあたってその思いが根幹にあることは、誰しも共通しているのではないだろうか。
言葉にすればごくシンプルな、たったそれだけのことを成就させるのが、実はこんなにも難しい。『愛がなんだ』の真のテーマは、そこにあるのではないかと思う。作品の分析を進める中で、主要な登場人物が誰一人としてしあわせな恋愛をしていないことに、私は気が付いたのである。

今日とまったく同じ日など二度とやっては来ないように、すみずみまで自分とまったく同じ恋愛観を持った人間など、この世には存在しないのである。そうはいっても、恋愛というのは自分とは違った恋愛観を持ったもの同士で行うよりほかにない。だからこんなにも難しく、やっかいで、楽しくて、年代を問わず多くの人々が頭を悩ませ続けているのだろう。時代によってスタンダードな形こそ異なるが、恋愛ほど不変の営みはそうそうないように思われる。

愛の形に正解などきっとない。何をもって正しいとし、何を信じて進むかは、すべて自分自身に委ねられているのである。
そして、世間一般の「ふつう」が、自分にとっての正しさであるとは限らない。『愛がなんだ』という作品には、そのようなメッセージが込められているようにも感じられた。

私にはテルコの生き様を他人事だと思うことができない。しかるべき相手や方向に向いていれば賞賛されるであろうそのまっすぐさは、少し扱い方を誤っただけで狂気とみなされ、時に異常だと評される。正しい方向がどちらかなんてわからないし、わかったところでそちらを向けるかどうかなんて、自分の意志で決められることではない。自らコントロールできる時点で、それは愛とは呼べないだろうと思えてならないのである。

論文というか、もはやエッセイやん……。
改めて読み返してみると、まあよくこれで卒業させてもらえたものだとしみじみ思う。

とはいえ、このときに書いた気持ちは、少しもぶれることなく今も自分の中に在る。

自他共に認める恋愛体質のわたしだが、正直しんどいことのほうが圧倒的に多いし、自己嫌悪に陥る頻度もばかみたいに高い。やめられるもんならやめたいと切に願いつづけてきたが、近頃それが少し変わってきた。

人生の軸に恋愛を据えて、なにが悪い。

仕事が、家族が、趣味が生きがいです。そう言われたら、だれしもなんの違和感もなく受け入れるくせに、恋愛が中心だと聞けば途端に、へええと冷ややかな目を向ける。それがわかっていたからこれまであまり露わにしてこなかったけれど、いったいそれのどこが悪いんだと逆に問いたい。

他者に自分の生きる意味を委ねるなんて、そりゃあ怖い。だって相手はわたしの人生に対してなんの責任も持たないわけで、にも関わらずそこを人生の中心に据えてしまうなんて、たしかに狂っていると思う。
しかしそんなことは、他でもない当の本人がとっくに気づいているのである。

わたしだって、自分の生きる意味を自分自身の中に持てたらどんなにすばらしいだろうと思う。
でも、できないのだ。ひとたびそう気づいてからというもの、ようやく開き直れるようになった。どうやらこれがわたしなのだと、諦めがついたのである。

これでいいのだと結論を下すにあたり、わたしを励ましつづけてくれたのが、言うまでもなく『愛がなんだ』という作品だった。
正しいとか正しくないとか、ふつうだとかふつうじゃないとか、どうでもいい。自分の選択が導いた結果を、きちんと引き受ける覚悟すらできているのなら、なにをしたって構わないのだ。そう思うと、とても気が楽になった。

差し当たっては、わたしの信じるほうへと愛の矛先を向け、そこへ向かって全力で進みつづけるのみである。

愛がなんだと吐き捨てる日が、いつか来るのかもしれない。
そうだとしても、わたしは自分の決断をきっと後悔しないだろう。

わたしとよく似た「テルコ」というひとりの女性。
同志のような、戦友のような存在として、これからもたくましく生きていてほしい。

みなさま、ぜひ劇場で。
『愛がなんだ』は名作です。


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