見出し画像

人は生きながらにして死んでいく、 という感覚

『常識』という言葉が嫌いだ。使わないようにしている。
使わざるを得ない状況でも、前後の言葉はものすごく選んでいる。

「常識的に考えて」と枕詞がついた場合、その発言主は私からみて「自分の意見に対して疑いを持っていない、思考停止している人間」と感じてしまう。特に、「は?常識でしょ?」なんて返されたら「あなたの常識なんて存じませんけどあなたのスタンダードについてまず説明していただけませんか?」と申し上げたいところである。

なので、モラルなどに関する場合は「良識的に考えて」や、「イメージされやすいのはこういう形なのでは?」という形で言葉を選んでいるのだけれど、自分が「世間知らず」ではなく「時代遅れ」になっていると気が付いた瞬間はいつだろう。

男 「しかし、歩かないのは、健康に悪い。人間は足から腐っていくんだ。」
女B「頭からよ。」
男「足からだね。」
       - 安部公房『愛の眼鏡は色ガラス』(新潮社刊・1973年)

自分のいる演劇の世界は限りなくアナログで古い。
いまだにチケットはネット予約しても受付で一覧を紙で管理しているし、スマホアプリで購入したにもかかわらず入場時の確認作業はリストで手作業目視で管理だったり。まあ何よりもっぱら会場では現金払いである。当日会場でクレジットカードの窓口は夢のまた夢。
プレイガイドの導入で事前に入金・座席を購入者に選んでもらい、チケットを発券した状態で来場してもらって劇場ではチケットの確認のみ、ということを提案する程度で猛反発が起きるのだ。時代に逆行しすぎである。

今までやって来たこと、に対して「これしかやり方を知らない」「これ以外のはやったことがない」から新しいことを聞き入れようとしない・受け入れようとしない。「小劇場・新劇の劇団の時はこれが常識」と言い放って、提案を却下されたことだって、一度や二度ではない。
もちろん、手数料や導入することのメリットデメリットを天秤にかけた上で、これぐらいの人数・代金などの規模感であれば導入するしないを判断するのは自由である。というか、比較検討した上で導入しないのは全く問題がない。
私が嫌いなのは、こっちはちゃんと調べてきていて提案しているのに「常識」という思考停止の名の下に検討すらしない人間が山のようにいるという現実である。

私が小劇場の世界に足を踏み入れたのは2011年。そして現在は2018年。
この7年で何が変わったかなあ、と考えた時に、ああ、人間の吝嗇さが際立ってきたなと思った。あくまで個人的な体感として、チケット代は500〜1,000円ほど相場が値上がりし、事実として劇場費は物価の上昇とともに値上がりをしている劇場も増えている。二言目には「金がない」「このサービスは無料じゃない」でそのくせ文句は言う。
ノルマあり、という出演者募集は減ったように思うし、1枚目からバックあり、という出演者募集も増えたように思う。商業舞台の事務所所属者などのみにむけたクローズドな案件により接する機会も増え、あああと何より、座組内の情報共有手段がメーリングリストからLINEグループにシフトした、というのはインフラの変化だろうな。
大学時代お世話になった教授が、NHKのチームでもLINEグループでみんなが反応してピコピコうるさいんだ、と話していて、NHKもLINEグループで連絡共有してるのな、とLINEの普及ぶりに改めて目をみはる。キャリアのメールアドレスはなくてもLINEのアカウントはある、ということなのだろう。

しかしながらチケットの販売方法は変わらない。スマートフォンが普及して、かなりの割合でスマホ、もしくはガラケー+タブレットという組み合わせの人も一定数いるがそれらの携帯通信デバイスが発達して、個人向けECアプリやプレイガイド系統のチケット販売アプリなども圧倒的に7年前に比較すると普及し、個人が個人的に何かを売ることのハードルが圧倒的に下がったのにも関わらず、びっくりするぐらい「役者の個人フォーム」からの予約をオープンにさせ(これ本当に、品位がないから嫌いなの。手売りはクローズにするべき)事前決済が広まらない。いまだに劇場で当日精算一択(ちなみに結構見かけるが、「清算」ではなく「精算」である。言葉を扱う役者が「精算」と「清算」の違いすらわからないとは呆れる)な「予約フォーム」が主流である。
なぜ予約なのか、なぜ「販売」でないのか。手売りに依存している、それはいい。でも今のやり方、いまだに続いてる「演劇の常識の売り方」である「役者が個人的に手売りしてそのリストを受付に提出して(それが単純にフォーム経由ってだけ)当日確認し現金で支払いを行う」って、それこそ北村明子さんや東京芸術劇場の高萩さんの著書で書いてある、野田地図が夢の遊眠社だった時代にやってた方策ではないのか。20年どころか30年前だぞ。もう平成も終わると言うのに。

もうこれが明らかに時代遅れだ、と思うのは世間のスタンダードがすごい勢いで変わってきていることに狭いコミュニティでしか生活していないとわからないから。
中国ではキャッシュレスが当たり前、ホームレスもスマホ持ってるとか言う次元の話じゃなくて、例えば、ぴあですら電子チケットに徐々に移行していることとか、映画館のスタッフの配置が、恐ろしく変わってきていることとか。

先日映画を観に行って、これまでドキュメンタリーなどのミニシアター系やインディペンデント系が多かったので、有人窓口でチケットを購入し、という流れで当然のように観ていたら、ショッピングモールに併設された映画館に行ってびっくり。
チケット購入窓口は自販機。事前予約or当日その場で購入のいずれか(おそらく会員うんたらなど細かいのもあると思うが割愛)で、上映開始ギリギリでもシステムで全席指定で座席を選ぶことができ、現金もしくはクレジットカードで決済ができる。
無論、特典付き前売り券などの対応の窓口は別途有人であるけれど、限りなくシステム化がはかられている。
単純に、びっくりした。そして自分がいかに大手系列の映画館に足を運んでいないかと言うことにも驚いた。

これの何が時代に遅れてるのか、というと。

「これが、イオンモールなどのショッピングセンターなどで現在行われているチケットの販売システム」(無論、ある程度の地域差はあると思う)だから。

普段の生活に隣接しているエンターテイメントがここまでシステム化されていることに気が付いていない自分が時代に取り残されていたという実感しかなかったし、このシステムはおそらくそれこそ全国各地のイオンシネマとかではごく当たり前の光景なのかもしれない。
つまり、「当たり前」の水準が徐々に上がってきているのだ。

より大衆的・一般的な娯楽である映画ですら、ここまで効率化をはかっているのに、じゃあどマイナーな演劇、ましてや小劇場が恐ろしくアナログで時代遅れであることに何も問題を、疑念を抱いていないと言うことが恐ろしい。
「演劇見たことない人に小劇場とか見にきて欲しい」って言うなら、一番注意すべきは、「今の世間の当たり前は何か」である。

時代遅れに、未来はない。ただ緩やかに生きながら死んでいくような事なんだから。





この記事が参加している募集

コンテンツ会議

私に課金していただいたぶんは私が別のエンターテイメントに課金してそれをまたネタにしますので華麗なるマネーロンダリングとなります。