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誰が結婚してもきっと私は焦らない。ただ寂しくはなるのかもしれない。

世には結婚適齢期というものがあるらしい。この間オープンマリッジについての記事を書いた際に、結婚の定義などについても調べた。すると見事に広告が婚活一色に染まった。婚活婚活婚活婚活……。婚活って字はこれで正しかったんだっけ? とだんだん不安になってくる。ゲシュタルト崩壊というやつである。

それにしても紙にサインして役所に提出するだけの婚姻って手続き一つ、してるかしてないかでどうしてこんなに大論争になるんだろう。しかも人のすることでしょう。放っておけばいいのに。と、新時代の女ぶったことを言ってみるけど、そんな私だって焦らないけど友人の結婚は寂しい。だってだってだって……私の友人が私だけのものじゃなくなるじゃん(元から私だけの友人ではない)。

婚活を決意させようと広告はあの手この手を使ってくる。一番納得いかないのは「皆しているよ」と婚活を始めさせようとする方法。本当にあなたの言う皆が婚活の末に結婚して幸せを掴んでいるのだとしよう、百歩譲って。でも、その幸せが私にも適用されるという根拠はどこにあるの? 私と皆は別個体なんだよ? とつっこみたくなる。私と皆は違う。

そして勿論婚活は成功することばかりじゃない。就活と同じ、数多の失敗の上に成功があって、それが輝かしく見えるしそう見えるように企業がデコレーションしているだけなのだ。結婚そのものにだって成功と失敗があるのだから当然のことだ。私の実家は見事な失敗例。かと思いきや最近何だかうまくやっているらしい。それを私が子どもの頃にやってほしかったものだ。何だ、やればできるんじゃん。

まあ私も24歳、順当に人生のレールを辿っていれば、大学卒業して新卒2年目。そろそろ結婚するとかしないとか、そんな話題に埋もれるお年頃っていうのは、わかる。25過ぎたら売れ残りなんていうのはさすがにもう古いけど、子どもが欲しいカップルであれば、たしかに結婚適齢期というものはある。経済的にも、他にもいろいろとね。

そもそも人生のレールを順当になんて走っていない。だからもうその時点で、普通からは外れている。いや、生まれた時点からか。だってアルビノでASDでセクシャルマイノリティなんだもの。きっと普通の人生は送れない。よくも悪くも。

こと仕事をしているとかそういった話題には漏れなく焦り、お金が欲しくなってまだ療養中だっていうのにハローワークに行ってみたりしてしまうのに、結婚の話になると、冷静になって、婚活を勧めてくる広告につっこみを入れられる。

この差は何なんだろう。

私にとって結婚とは友人がするものであり、自分がするのではないのだ。恋愛感情のないアセクシャルかつ性欲のないノンセクシャルという属性故か、結婚への焦りはない。する気もないからだ。

でも、と思う。友人が結婚すると想像してみたら、焦らないけど、結構つらい。だって、友人を構成する単位が一人じゃなくなっちゃうんだもの。友人の生活の最優先にパートナーが入りこんでしまう。私と友人の世界に友人のパートナーが乱入してくるようなイメージがどうしても止まらない。いざってときも、友人の一番はぽっと出のパートナー。私の方が友人のことを知っているのに。もちろん人間関係は時間の長さだけじゃないけど、こんな悔しいことがあってたまるか、と想像だけで寂しくなっている。

こんなこと、友人達に直接は言えない(仮に言ってしまっても許してくれることは知っているけどさすがにね)ので、ここで言う。

結婚しないでね、我が友人達。私とずっとシングルしよ。

あっ、ここ、ごくごくわずかな親しい友人には知られてた。でもまあいっか。文章は私100%でできているから。

テーマがマイノリティの現実の人なので、婚活市場では自分は減点されまくりの地雷物件だろうなって思ったことも記しておく。

執筆のための資料代にさせていただきます。