何もなくてよかった。

救急搬送されるととにかくお金が飛ぶんだなあということを、大人になって初めて知った。

意識が飛びそうになったり、自転車に乗っていて頭をぶつけたりして、大人になってから2回も救急搬送されている。

それで、諭吉が飛ぶ(1万円を越えるお金がかかる)ことを知った。勿論本当に具合が悪くて救急車を利用して運び込まれているわけだし、2回とも大したことなかったけど大したことないとわかるためにはその搬送が必要だったことはわかる。

それでも、1万越えの出費は痛い。正直に言うなら「や、やっちまったな~」、「うへえこの1万円で本が何冊買えただろう……」である。

自分で自分の医療費払ってもそう思う。うわ~やっちまったよ……ってげんなりする。何度も言うけど頭では健康のために必要な搬送だったとわかっている。

私は子どもの頃にも2回ほど救急搬送されている。最初は5歳のとき。テーブルの下に落ちたお菓子を取ろうとして頭をぶつけた。2回目は大雪の日にひどい腹痛に襲われた。

この最初の救急搬送のことを私はよく覚えている。

ちょっと曇った日。朝早起きして近くに住む祖父母の家に行って自分の家と祖父母の家の分のごみを捨ててくるというお手伝いをしていた。その後に祖父にコンビニでお菓子を買ってもらうのも楽しみだった。

そのお菓子をローテーブルの下に落としてしまい、取ろうとしてローテーブルの下にもぐりこんだ。お菓子を取ってローテーブルの下から出たと思って顔を上げたらローテーブルに後頭部を打ちつけた。

そこからのことは覚えていない。すぐに祖父母の家のソファに寝かされ、家から母がやって来て、元々白い私の顔を「さらに白い」と言ったこと、救急隊員のお兄さんに抱っこされて救急車まで運ばれたこと、何だかよくわからない機械(多分CTかMRI)に寝たまま入れられたことくらいしか覚えていない。

結局何でもなかったのだが、あの搬送にも1万円越えの医療費が……と思うとあの日の家計を思っては痛い出費だなと感じる。

普段「誰のお金で生活できているの」と言うことのある母だったけど、こういう救急搬送のときにはそんなこと言わなかった。

「何もなくてよかった」と、それだけ。

当たり前と言えば当たり前なのだけど、私はその当たり前をできるだろうか。いや、それ以前に冷静に救急車を呼べるだろうか。

いつかは祖父母も両親も死ぬ。その場に居合わせたら、そこが病院ででもない限り、私が救急車を呼ぶのだ。

本当は救急車を呼んで、何事もなくて、「何もなくてよかった」って帰ってくるのが一番だけど、もうそうは言ってられない歳だから。


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