「見た目問題」と私。

仮面の世界を思い出す

明日、見た目問題についての本が出版される。私もAmazonで予約注文してある。

「見た目問題」と聞くと私はどうしても思い出す小説がある。それは、皆が笑顔の仮面をつけることを義務化された社会を描いた小説。主人公達はそんなのはおかしいと仮面の義務化にひそかに抵抗を企てるのだけど、委員長のような子がそれを咎めて圧力をかけてきたりする。実は委員長は顔に怪我の痕だったかアザだったかが残っており、仮面の義務化が解かれれば治療も進むかもしれない、けれどその世界で醜い顔の自分に居場所はないだろうから仮面のある今のままがいいとも言える……と葛藤していたという内容だったと思う。

この小説、タイトルも作者も覚えていないのだが、私のなかで「見た目問題」を語るのに外せないものとなっている。ちなみにこの小説を読んだ当時の私が考えたことは「仮面の下にニキビがあっても、本当は相手を見下していても嫌っていても仮面の通り笑顔であるという前提で人生という物語が進んでくれるんだからいいじゃん」だった。笑顔しか"ない"前提の社会、それもまた円滑に済みそうだ。

しかし現実には、ネットにだって顔文字が存在するくらい、人は顔と表情を求めているのだ。

こうして私は「見た目問題」当事者になった

見た目問題とは他人と異なる見た目の人が見た目によって差別を受ける問題である。

ということも、大学生になって容姿や視力を理由にアルバイトを断られてしばらくして知った。

それこそ保育園の頃からやれ金髪だガイジンだと言う口の悪い子どもとの遭遇には事欠かなかったが、"生まれつきのことを言うろくでもないやつ"に負ける私でもなく、黙らせるべく行動に移していた。

そこに「見た目問題」があるじゃんと思うだろうが、当時の私には「見た目問題」などなかった。何故ならこの髪の色を、祖父母と親が肯定してくれていたから。

小さな私の世界では親に比べて"生まれつきのことを言ってくるろくでもないやつ"の存在は豆粒より小さかった。だから言われた言葉を蹴飛ばし、黙るまで言い負かし先生に言いつけて謝らせるのに躊躇いはなかった。

中学高校と進んでいくにしたがい、思い返せば「ル、ルッキズム~~~~~」とつっこみを入れたくなる扱いも受けたが、それはアルビノだからではなかった。一番笑う悪口は「あいつはガイジンだから英語ができる」である。後から聞いて笑った。大爆笑である。

校則で不当な扱いを受けるとかそういうこともなく卒業したので、本当に「見た目問題」はなかなか私の人生に登場してこなくて、アルビノで弱視であることにずっと悩んでいた。

それで、大学生のアルバイトで初めて「見た目」で差別された。(親の再婚の時の話はどちらかというと遺伝疾患であることへの差別だと思うので置いておく)

正直に言ってとても怒ったし二度とそこの店には行くものかと決めて絶対に行かないようにした。その時取っていた講義の「社会不適合者と言いますが、適合しようとする社会は本当に正しいですか?」という問いに救われた。教養の先生ありがとうございます。あなたのおかげで雁屋は生きています。本当に教養は身を助ける。文字通り救われた。

この社会は正しくない。そこには問題がある。それは「見た目問題」というのだと知った。

こうして私は「見た目問題」当事者になった。

「見た目問題」は想定の足りなさ

今日商業施設を作るのに、車椅子ユーザーの利用を想定しない企業はほとんどないだろう。それと同じことで、「見た目問題」当事者が社会にいることを想定するようになればいい。数学の確率であらゆる可能性を書き出すように、「見た目問題」当事者の存在も想定すべきだ。

知らないから想定できないのだろう。でももう「知りませんわかりません」はやめにしないか。無知で人を傷つけていることを自覚すべきだ。

というのが、先程の本を読む前の雁屋の見解だ。

執筆のための資料代にさせていただきます。