「死にたい」も大切にしていいんだよ。

死ぬのが怖いと一人泣いた冬の夜があった。キンと冷えた空気と、オレンジ色の街灯に照らされた雪の夜。死ぬのが怖くて、死んでも何も変わらない現実が憎くて、そんな自分が憐れで、さめざめと泣いた。

私はいつだって私のためにしか泣けないのだ。利己的な涙と笑うなら笑えばいい。人はいつだって自分のためにしか泣かないと思っている。泣くのなんて感情処理の一環でしかない。そこに尊さも憐れみもあるだろうか。泣いたって何も変わらないけど、それでも感情処理のために泣く。人間はそうできている。

私は何もわからなかった。身内の死に際し涙する人の気持ちも納棺されていく遺体から目を背ける人の気持ちもわからなかった。死に誠実でありたいなら、死にただただ向きあい続けるべきなのに。彼らは死に向きあうつもりなどなかったのだろうけど。身内は死に向きあっていたのではなく、死んでいった故人を悼んでいたのだ。

死ぬのは怖い。だって死ぬのは痛いし苦しいだろうから。

けれど死は救いだ。この生という苦しみから解き放ってくれる。死者が生者をあちら側にひっぱりこもうとする創作の描写はあちら側の方が生きるより楽だから、楽にしてあげたいという善意なのかもしれない。

前置きが長くなった。

「死にたい」と言うとどうしても怒られたり病院に連れこまれたりする。後者の対応は間違ってはいない。人間は通常は「死にたい」なんて思わないのだからそう考えている時点で病的だ。

病院に連れていくというのは間違ってはいないしそれはもう本当に正しい。

だけど、「死にたい」って言った人は、そのとき初めて自分の気持ちを大事にすることができて、表現するところまでいったのかもしれない。「死にたい」という気持ちも大事にしていいんだって私は思う。

それも、あなたの大切な気持ちだから。 

執筆のための資料代にさせていただきます。