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日本天文学とイエズス会士②~渋川春海、吉宗時代、麻田学派~

第1回目は、こちらです。↓↓↓


(承前)

 2.日本の天文学と明清のイエズス会士

 東洋において、暦とは、国を治めるものが管理するものであった。江戸時代になると、これまで朝廷方が独占していた編暦事業の大部分を、幕府方が担うようになっていく。そうした業務を請け負ったのが幕府天文方であり、彼らは暦をより現実に合うように改暦を繰り返した。その際に参考にされたのが、明や清にいたイエズス会士による漢籍の天文学書であった。殉教で終わってしまった日本のスピノラと違って、中国に渡ったマテオ・リッチとそれに続いた明・清時代のイエズス会の宣教師たちは、逆境に陥ることもありながらも、ときに欽天監監正(国立天文台の長官)に任命されるなどして、明清の政府に、天文学など科学方面で重宝された。以下、彼らが関わった天文学の書物が、キリスト教禁教下の江戸時代の日本に与えた影響を見ていきたい。


2-1 渋川春海と『天経或問』『坤輿万国全図』

 日本では、862年からずっと唐の宣明暦を使っていたが、戦乱の世が終わった江戸時代、不備の見られる宣明暦でなく、日本に合った暦を作ろうとする機運が生まれた。こうした改暦への動きを後押ししたのは、保科正之(1611-1673)である。保科正之は、三代家光の異母弟で会津藩主であったが、その会津にしばらく滞在した渋川春海(1639-1715)は、宣明暦の改暦を保科正之に訴えた。これに感銘を受けた正之は、自分の死後、改暦の議が起こった場合は、春海を担当にさせるよう遺言したと伝えられている。正之の死後、春海は、元の時代に作られた授時暦によって改暦をするよう幕府へ上奏したが、日本を攻めてきた元の暦を使うのは好ましくないということで、陰陽頭の土御門泰福が難色を示し、授時暦から消長法を除いた大統暦を使うことを推した。中国では、この頃、すでにイエズス会士のアダム・シャール(湯若望 1592-1666)によって、大統暦を西洋新法によって改暦した時憲暦が制定されていた。渋川春海は時憲暦を直接みることはなかったが、游子六の『天経或問』を通して、時憲暦を学ぼうとした。(『天経或問』は、イエズス会士による天文学的知識その他が参照されている。)結局、授時暦を『天経或問』などの知識によって、日本に適応するよう少し変更を加えた日本初の大和暦である貞享暦が完成し、1685年から施工された。この貞享暦の成功によって、春海は、幕府に新設された天文方というポストに任命された。以後、日本の暦の発行は、暦の天文学的な計算部分は幕府が、暦注(占い記事)部分の作成は陰陽寮が担当するようになった。

 ところで、春海が望遠鏡も使ったことは以前書いたけれども、↓

その使い方は、『天経或問』に従った使い方だったらしい。また春海は、地球儀も作っており、1695年製作のものが現存しているが、その地球儀は、マテオ・リッチの『坤輿万国全図』を参考にしている。マテオ・リッチは、中国に、天文学だけでなく、ユークリッド幾何学を伝えたり、世界図である『坤輿万国全図』(1602年)を刊行したりした。『坤輿万国全図』は、1605年には、京都に伝わっていたようだ。春海が参考にした『坤輿万国全図』がこのときのものかは、わからない。

 春海も研究した『天経或問』は、天文学の一般書で専門書でなかったから、渋川春海には、物足りないものであったかもしれないが、一般書だったがゆえに、日本では広く拡がり、幕末でも学徒でこれを手にしない者はないといっても過言ではない状況になり、明治初期ですら諸藩校の教科書として用いられたほどであった。


2-2 吉宗の時代と『西洋新法暦書』

 吉宗(1684-1751)は、中国の時憲暦を知っており、貞享暦で問題がないのか気になっていた。1720年には、キリスト教に関係しない天文暦学などの漢籍の輸入・販売を許可するという通達が江戸から長崎奉行所に送られた。吉宗は、中国の天文学者梅文鼎の『暦算全書』の翻訳を命じたが、梅文鼎は西洋天文学にも精通した、清代最高の天文学者と評される人物であった。また吉宗の時代、『西洋新法暦書』(1645年)も日本に輸入された。中国では、1645年に、イエズス会士のアダム・シャール(湯若望 1592-1666)によって大統暦が時憲暦に改暦されていたが、その元になったのは『崇禎暦書』(1634年)であった。『崇禎暦書』は、『天経或問』と違って、高度な専門書で、徐光啓らとイエズス会士のテレンツ(鄧玉函1576-1630)やシャールの協力によって完成したものであるが、本書は、プトレマイオス以来の旧説とコペルニクスの新説(地動・太陽中心説)を折衷したようなティコ・ブラーエ(1546-1601)の天動説(地球中心説)に基づいており、且つ観測データが豊富に掲載されていた。『西洋新法暦書』は、明の時代に用意されたこの『崇禎暦書』を、明清交代期に再編したものであった。(『崇禎暦書』や時憲暦に関わったシャールは、1646年に清の欽天監監正(国立天文台の長官)に任命された。)吉宗は、長崎で活躍した著名な天文学者の西川如見を父に持つ西川正休(1693-1756)を幕臣として取り立て、幕府天文方の渋川則休と共に、貞享暦を、西洋新法を取り入れた新しい暦へと改暦するよう命を下した。しかし、上述の西洋新法の漢籍の内容が難しかったのと、西川正休と京都の土御門泰邦の不和もあって、吉宗の存命中に、これらの天文学書の成果を組み込んだ改暦は成功しなかった。ただ、これらの天文学書によって、西川正休は、簡天儀(観測機器)を作製し、観測に役立てた。また正休は、渋川春海にも影響を与えた『天経或問』の訓点本を出版し、『天経或問』が日本に広く拡がるのにも、貢献した。


2-3 麻田学派と『暦象考成 上下』『暦象考成 後編』『新製霊台儀象志』

 18世紀の半ばになると、吉宗時代に輸入された漢籍の天文学書が、民間のアマチュア研究者たちの手にも入るようになり、そこから優秀な人材も登場したが、その代表ともいえるのが、大坂に出た麻田剛立(1734-1799)であった。天体の運動をより精密に計算するためには、多くの観測データが必要だったので、麻田は、イエズス会士フェルビースト(南懐仁 1623-88)による『新製霊台儀象志』(1673年)を参考に、観測機器を新しく製作したり、『崇禎暦書』や『暦象考成 上下』を研究し、独自に時中暦を作ったりした。『暦象考成 上下』(1723年)は、上述のシャールらによる『西洋新法暦書』に基づき、梅穀成らによって成ったものである。麻田のもとには、質屋を営む大坂町人の間重富(1756-1816)や、大坂定番同心の高橋至時(1764-1804)といった門下がいたが、間重富は技術方面に、高橋至時は理論天文学に強かった。彼らの実力に目を付けた幕府は、1795年、間重富と高橋至時を江戸に呼び寄せ、翌年、改暦の命を下す。1797年には、桑名藩主の松平忠和から、日本では貴重だった『暦象考成 後編』を麻田派が入手した。『暦象考成 後編』(1742年)は、やはりイエズス会士であったケーグレル(戴進賢 1680~1746)やペレイラ(1680-1746)が『暦象考成 上下』の内容を改訂、再訂したものである。この『後編』では、『上下篇』まで採られていたティコ・ブラーエによる理論と数値を捨てて、ケプラー(1571~1630)の楕円形理論など新しい天文知識が取り入れられていた。以後、日本でもこの『後編』に通暁することが、暦学の薀奥を極めることだと考えられた。1798年、『暦象考成 後編』の研究の成果を入れた寛政暦が完成し、ここに西洋の新法に基づいた改暦を望んだ吉宗の願いが達せられた。『崇禎暦書』、『新製霊台儀象志』、『暦象考成 上下』、『同 後編』といった書物やその写本は、高橋至時の弟子になった伊能忠敬も学ぶところとなった。(続く)


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