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これまでの振り返り。(2021年9月13日version)

私のこれまでを、振り返ってみる。


小児がんの疑いがあったり、体が弱くてよく熱を出したりしていた幼少期。

よく喋る明るい子だった。

水泳を始めてだんだん健康になった。

3年生のクラス担任の先生に大ハマり。面白くて時に授業を中断してまでガチで対話する場を開いていたな、そういえば。心に訴えかけてくる感じが、惹かれたのかなあ。

4年生になって、学級委員。

ちょっと担任の先生と相性が微妙だった気がする。

5年生〜6年生、思い出企画委員会、とっても楽しかった。委員のメンバーが大好きだったなあ。

委員長で、児童会長を実質やっていたな。関わりが増えるのが、なんだか楽しかったんだろうな。

4年生くらいから、チックの症状が出ていたと思う、確か。

白目を向いてしまう。喉を鳴らしてしまう。

周りから、なんでそんなことしているの?と興味範囲でよく聞かれたのを覚えていて。何かの練習って言ってごまかしていた気がする。気持ち悪がられることも多かったし。そんな中で、ある子が、委員長を私がやるなら、俺が副委員長やるから、って言ってくれたり、同じ委員の子が、一緒に帰ろう、とか、声をかけてくれたり。それぞれの時に仲良くしていた人が転々としていたと思う。距離感を感じたら違う人のもとへ関わりにいく、みたいなことをしていたと思う。常に周りを見て、ちょっとびくついていて、シビアな世界を生きていたと思う。

中学校に上がって、5、6月ごろかな、小学校の後半ごろから仲良くしていた子から、けいざんっていうあだ名で呼ばれながら、陰口を同じバスケ部の子と話しているのをよく見かけるようになる。最初の方は周りがその子の言いたい部分に合わせて聞いているような様子で、直接私に対してはごく普通にこれまでと変わらず関わってくれていたが、次第に陰口やニヤニヤした表情をする人が増えていって。7、8月ごろ、部活で罰ゲーム制の3on3をしていた際、どうやら、「なんでみんなが走らないといけないのか」、みたいな言葉を発言していたらしい。それが、ミスをした人に対するひどい言葉だ、ということで、明確に嫌われるようになった。まずは部活の同じ学年内、次にクラス内、部活の先輩方の中、これまで友達だった人の中で、そして学年の中で。

中1の頃は、その部活始めのいじめだけではなく、同じ小学校出身のある男子生徒が、私ともう一人、ADHDと思われる子をいじりにいじりまくっていて、ストレスが甚しかった。ロッカーを開けさせてくれない、ロッカーのパスワードを見ようとする、読んでいた本を取り上げる、少しだらっとしていると、できつくろいの決まりを持ち込んで大きな声で非難する、など。その子にいじられていたもう一人の子は、感情が爆発して叫んだりしていた。

誰かに話しかけに行こう、授業移動一緒に行ける関係性になれたらいいな、と思って勇気を振り絞って関わるも、バスケ部の子から、私が話しかけた子に、コソコソと関わらない方がいいよ、こんなことやったヤツだよ、などと吹聴され、(目をニヤリと向けながらこそこそと話をしているのをよく見かけた、雰囲気で、その話しかけられた子の、私への見る目が変わるのがわかった)話かけた子には、ことごとく避けられるようになった。

1年生の後半くらいから、次第に自分から誰かに話しかける事はしなくなっていった。誰とも話さず、給食を食べる時も人と目を合わさないようにひたすら読書。本を読むときが救いだった。

あとは合唱コンクールのピアノ伴奏や音とりで関わりをつくっていた。少し話す機会があっても関係性を深めようと思うと離れて言ったしまう、避けられるのがもう嫌で耐えられなかったため、少し話をする機会があったとしてもそれ以上は深入りをしないように自分がしていた。

2年生の時は、町内に転向してきたある子が、家庭環境が荒れ気味で、少しメンタルもざわついており、転校前の学校では嫌われていたらしい、と塾の同じクラスの子から聞いていた。(塾ではバスケ界隈の手がまだ届かず、何人か友達ができていた。)同じ町内ということもあり関わっていたが、次第に学年初めで少し仲良くなっていた子のことを占有するようになり、一人行動再び、のきっかけになる。少し仲良くなっていたその子からも、「ごめんね」とそろっと言われる。再び一人で本を読む、バスケのボールを触る昼休みが始まる。

1年生の途中から、部活や学校に行くたびに、腹痛が止まらなくなる。お腹が痛くなったらどうしよう、と思うと決まってお腹が痛くなる、地獄の時間が続いた。病院に行ったり、整腸剤などで安心料を持ちあるぎながら生活する事で、少しよくなったりもしつつ、お腹に心が現れやすいのだな、ということで、うまくお腹と関わっていくようになる。

部活を引退してからは、部活での関わりがなくなった事、それぞれが少し年を重ねたこともあり、いじめが落ち着いてきた。友達もできた。日常生活で言葉を出す機会が少しずつ出てきて、笑うことも少しずつ増えた。

1年時にいじりまくってきた男子生徒も、同じクラスになったが(先生的視点であえて同じクラスにした説もある)、次第に周りがその子をなだめたりするようになり、治り、少しコミュニケーションも取れるようになる。

インフルエンザにかかり、卒業式には出れなかったが、勉強を教えたり、合唱コンクールをがんばったり、卒業後のクラス会に行ったり、最後の方は、なんだか楽しかった。東日本大震災の関係で転入してきた、ナナ(仮名)と、小学校から一緒だったミカ(仮名)と3人でよく一緒にいた。

ナナは、後遺症なのか、ストレスで頭痛やめまいが強く、よく早退していた。福島に帰れるのが決まって、お母さんも、ナナも、なんだか嬉しそうで、一緒に最後に駅前でカラオケをしたり、プリクラをとって遊んだのが懐かしい〜その後にも一回会ったんだよなあ。また連絡してみよう。

中学校で、一度も離れず一緒にいてくれたの、ミカとナナだけだった。また会いたいなあ。

高校では、中学校の時の塾でできた友達とウマがあって、ずっと一緒にいた。ユカリ(仮名)とは特に、クラスが一緒で、部活も、ずっと一緒にいた。学校生活を送りながら、次第に、クラス内でも、ユカリ含め仲良し5人でよく一緒にいたなあ。部活でも、部員全員と関係性をつくれたと思っている。3年間ワイワイ美味しく楽しく過ごしていたなあ。

テスト勉強や受験勉強も、なんだかんだ楽しかった。みんなでワイワイご飯食べながらいろいろ相談したり、教えあったりする時間が結構好きだったな。

国際交流課のプログラムに、家族的な反対で結局行けなかったのはちょっと残念だったな。東京に行くのも、ちょっと反対にあって、夜イライラしている父親と喧嘩することもあったな。

ディベート、難しかったけど、すごくいい経験になった。恩師に感謝。

結局変化することが怖い、損するような気がしてしまって、とりあえず早めに決めた進路を帰ることなくなんとなく教員なんだろうな、という思いとともに、進路希望先を変えずに3年間きたなあ。結果先生方の添削や家族の時間捻出サポートもあり、なんとか進路希望先の大学へ入ることができたんだよね。懐かしいなあ。

大学に入って、1年目は、サークルの活動に多めに参加していたなあ。あと、夏はNYに留学。念願の海外で、嬉しくて、ワクワクしていたのが懐かしいなあ。あと、NYに行く前は、高校の仲間たちとよく会っていたなあ。NYではいろんな人と友達になれたのがよかった。ネットを持ち歩かなかったから、サバイバル能力が少し養われたと思う。

2年生からは、英語の合宿づくりに明け暮れる。タスク管理含めた仕事の仕方、モデレートの仕方をしごかれ、挫折しまくる。全力素敵な人たちがいる空間で、忘れられないゴリッとした中の綺麗な世界だった。一旦離れた方が自分がつぶれないなあ、となんとなく思って、元々気になっていた、とあるNPO法人の話を聞きに行く。3年生になり、学習支援スタッフとなる。春、夏(夏は単発)、冬に学習支援を担当。授業に対してこの頃からパツパツしつつ、少し抜く部分も出てくる。

3年の冬、少し就活を始めてみる。

でも途中で、やっぱり海外に行きたいな、と漠然と思い、就活と教採の勉強(した覚えはないけれど)をやめ、海外への行き方を調べつつ、目下の、大きめの規模の教育関連の合宿型コミュニティの立ち上げ・運営や、高校生の探究学習プロジェクトの伴走、ビジコンの話し合い、複数のNPOや一般社団法人、教育機関との関わり、卒論、附属小学校のALT、などに取り組んでいた。そんな4年。とあるコミュニティとつながり、大好きな人たちがいっぱいいるコミュニティだと今でも感じる場がある。

卒業間近に、大学院進学を決める。指導教員、急激な進学申し込み、ありがとうございます。卒論提出後のドタバタ院進準備、はちゃめちゃだったなあ。図書館通いまくって、ギリギリなんとか出した感じで。分野が近そうな院の先輩方に添削をお願いしたっけ。本当に感謝すぎました。学部時代の研究室の先生も、最後まで見限らずに暖かく全力で向かい合って下さって、救いでしかなかった。「あなたを必要としている子どもたちが必ずこの世界中のどこかにいるから。その子たちと出会うために、今がんばりなさい」「誰かの人生を生きるのではなく、あなたの人生を行きなさい」もらった言葉と、いつまでも向き合ってくれる先生の存在が4年生の頃、ずっと支えになってくれていて。実習先や家族、実習関連で、周りの大学の先生方からマイナスな雰囲気を批判的な言葉を浴びまくっている中、研究室の先生だけが救いだった。

あの頃は、教育実習でつぶれまくっていた時だったなあ。

院に入って、国際支援の広報の仕事、フリースクールの仕事、高校探究学習の伴走、大学院授業、ゼミ、とある芸術祭の序盤に関わる、などなどで 日々を過ごす。

7月ごろから、次第に疲れが抜けず、フリースクールのスタッフ曰く、顔色も悪くなっていたようで、フリースクールの人にも、大学院の指導教員の先生にも、「一旦全部解き放ってみたら?」ということで、休学し、国際支援の広報の仕事以外はやめることにした。

休学中は国際支援の仕事で生活費をまかなっていた。支援先や支援団体内部のリアルな話を聞きながら仕事をすることができた。営業やマーケティングのノウハウを染み込ませることができた。成果報酬型でお金を稼ぐこと、学生社会人関係なく、昇進することができたこと、明るい同僚が多く、友達として休日もよく一緒にいたり、休学中の自分を保てる場になっていた。

自分で稼いで自分を養っている感覚が、心地が良くて。休みながら生きていていいんだ、って思えて。毎日オフィスに行かなくても良い職場だったし、稼げたから、当時の自分の状況にとってかなりありがたい場だった。

部下ちゃんが入ってくれて、チームも広がっていきそうだったけれど、自分が整ってきたこと、このまま時間が過ぎていくと、元々の、居場所づくりについて考え実践したいという軸の部分に戻れなくなりそうだ、ということで、一年で止めることを決意。

大学3年のNPOでの関わりあたりから、自分自身が描く世の中のビジョンについて考えるようになり、その過程で頻繁に居場所について言葉を出したり、気になることが多くなった。おそらく、原体験についてふり返る機会が関わっていたNPOで多く、おそらく私の原体験で大きいものは、中学校のときに学校に居場所を急に失った経験だと思われるが、その原体験が元となって、やりたいことを考えているからだとおもわれる。

教育実習でうまくいかなかったことや、家族との関係性の動きも、居場所がなくなった経験だと捉えることもできる。私自身の人生の中の苦しさの部分を居場所という概念で表現することがしっくりくるように感じ、その観点で教育や社会を見つめてみると、居場所について関心が高まってきている中でブラックボックス化している居場所の言葉や意味するものへの思考と実践を繰り返していく中で、何かの生きづらさを感じる人の背中押しや持続的な幸福度の醸成に後々思えば寄与していたようなきっかけづくり、場づくりがしたい、と思うようになった。その実践の具体的な領域として、地域コミュニティを考えるようになった。様々な表現の形で地域でムーブメントを起こしている人が増えてきている中で、学校や職場、家ではないサードプレイスを様々な形でつくりだしていく実践を通して、居場所が必要な人に居場所となる空間、人、時間が届くような生態系づくり(ソフト、ハード両面の仕組み作りという意味合い)を描きながら生きていけたらと思うようになった。

また最近は、旅をしながら音楽をし、居場所づくりをしていけたらと思っている。(2021年9月現在)

旅といっても、知らない景色をみにいく、まだ出会っていない人に会いにいく、の方向性もあれば、たどり着いたある地域に中長期的に滞在しながら、私にとっての「ふるさと、居場所」を見出しながら、その地域で場づくり(コンセプトデザイン、コピーライター、ビジネスモデルづくり、フローや収益、時期感などの体制づくり)を行い、一緒に、地域の一員としてムーブメントをつくる。そしてそれを持続する仕掛けを仲間と共に作り続けつつ、オンラインも含めて、旅を続けながら場作りに関わり続けられるような生き方ができたらと思っている。

また何度でも直接足を運んで帰りに行きたい場所、人を感じられる地域、コミュニティを見出していきたい。

そしてその生き方が、巡り巡って、居場所を必要としている人に居場所となる空間や時間、存在が届く生態系に近づくようになれたらと思っている。

また、大学時代の研究室の先生に頂いた言葉、私を必要としている子どもたちに出会って、関わり続けていきたい。

そのために、今の私だ。






















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