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8月6日の雑感

8月6日が身近になったのは広島に住むようになってからです。
首都圏育ちの私にとって、それまで遠い昔の歴史的な出来事にすぎませんでした。歴史の教科書で教えてもらった出来事だから、歴史の一部になってしまっていたのです。

広島に住んでいると、ローカルのニュースで被爆認定をめぐる集団訴訟などの状況が時々報じられて、決して過去のことではなく今に続く終わっていない出来事だということがよく分かります。

被爆二世、三世の方の友だちが出来て、直接お話ししたりするとさらに身近になりました。

広島に来てから知ったことは沢山あります。

例えば平和記念式典が行われる平和公園ですが、元の土地の高さから50cm〜1mほど高くなっています。
それはあまりにも多くの人骨とがれきの層を埋めて均一にするために盛り土したためです。
広島の子ども達は平和教育で平和公園を訪れたときなどにそうしたことを教えてもらいます。平和公園の足元に沢山の犠牲者が眠っておられることを、私は娘に教えてもらったのでした。

そういえば、原爆について語ることを許されなかった時代があったことも知りませんでした。

占領軍による原爆反対運動への弾圧が激しさを増していた頃に、峠三吉や四国五郎が反核のための詩や絵を残していたこと、丸木夫妻の原爆の図は、展示中何かあればすぐに撤収できるように最初は巻物だったこと。

8月6日前後の広島のローカル番組ではそうした人の作品にスポットが当たることが多く、私はいつも番組が全国に向けて流れたらいいのに、と思うのです。

いつの時代も才能に恵まれた人が使命感を持って発表してくださる渾身の作品があります。

お金を稼ぐことが目的なら、世の中の流れにうまく乗ればいいだけだけど、お金どころかその身を危険に晒して命がけで生み出された作品があるのです。

百年先まで残る、残さねばならない、ほんとうの作品とはそうした作品です。

偉大な芸術家の作品だけでなく、例えば被爆者の方がご自身の壮絶な被爆体験を描いた「市民が描いた原爆の絵」のひとつひとつも残さねばならない大切な作品です。見るのは辛い作品ですが、、

まだ広島について知らないことだらけの私ですが、縁あってここにいるのはきっと何か意味があるのだと思っています。

核なき世界や平和のために、今私ができることは、

「知ること」

に尽きるような気がします。

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