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竹田市で学んだ竹田のキリシタン史

・竹田市における領主・藩主のキリスト教布教の歴史について


 竹田市訪問では、最初に竹田キリシタン研究所・資料館に伺った。竹田キリシタン研究所・資料館では、大分キリシタン史についての担当の方からお話を聞いたり、取材をしたり、資料を見学したりさせていただき貴重な体験ができた。
 私は、竹田市に行く前、なぜ竹田市で他の地域に比べキリスト教が盛んに信仰されていたのかが気になっていた。そのため、竹田市キリシタン研究所・資料館で聞いた話の中でも特に、竹田市でキリスト教が普及するのに大きな影響を与えることになった「竹田市における領主・藩主のキリスト教布教の歴史」の話に特に関心を持った。

 竹田市ではキリシタン大名であった大友宗麟がフランシスコ・ザビエルを現在の大分市に迎えてすぐにキリスト教の布教が進められた。資料館の方によると竹田市では当時、多いときで8割ほどの人々がキリスト教を信仰していたという。
 このように、禁教下にもかかわらず、当時、キリスト教が竹田市で広く広まったのには、竹田市を治めていた領主・藩主の影響が大きいそうだ。

 竹田市では、戦国時代は朽網氏と志賀氏、江戸時代は中川氏によって、長い間キリスト教の布教が行われた。

第1期 朽網氏の時代(戦国時代1553年頃~1587年)
 大友宗麟がフランシスコ・ザビエルを豊後府内に招いた2年後の1553年には朽網地方(現在の竹田市直入町と久住町の境)に宣教師や修道士が訪れ、キリスト教の布教が始まった。当時の朽網山野城主朽網宗策は、自らをルカスと名乗り、家族、家臣、260名を入信させ、翌1554年には豊後で初の教会を建てた。この朽網氏の熱心な布教への協力があって、朽網地方はキリスト教日本八大布教地にまで発展した。

第2期 志賀氏の時代(戦国時代1584年頃~1593年)
 志賀家最後の岡城主であった志賀親次は、ドン・フランシスコ大友宗麟の孫に当たる。親次は、侍女イザベルの影響で自らもキリシタンになりたいと熱望、ついに家族に内緒で臼杵の教会に出かけ、ゴメス神父から洗礼を受けドン・パウロとなった。その信仰熱は相当なもので、自らの腕に十字の刺青を彫り、城の瓦すべてに十字を入れたことが記録に残されている。反して仏教界を敵対しており、城の敷地内にあった神社、仏閣をすべて壊し、城の下の谷に仏像を投げ捨てたそうだ。志賀氏の城下での熱心な布教の結果、当時の岡藩は豊後最大の信者数となった。大友宗麟のキリシタン保護政策と相まって、しばらくの間、豊後はキリシタンにとっての楽園と呼べる時代が続いた。

志賀氏がいた岡城には、アーチ形状の石垣「カマボコ石」が多用された曲線的なデザインや大手門のまるでヨーロッパの古城のような形の石垣など、日本の城には見られないような「キリシタン文化」を感じられる特徴がある。

カマボコ石
大手門の石垣

第3期 中川氏の時代(戦国末期から明治維新1594~1867年)
 志賀親次が岡城を去ってから、岡藩の新しい藩主として入ってきたのが、中川秀成だった。元々、中川家は南蛮文化に強い影響を受けた大阪摂津茨木城主(現:大阪府茨木市)だった。中川秀成の父である清秀はキリシタン大名「高山右近」とは従兄弟、キリシタンであったとも言われる茶人大名「古田織部」とは義理の兄弟であったがゆえに、キリスト教は身近なものであったと思われる。秀成についてはキリシタンであったかどうかは不明であるが、秀成が布教に寛容であったことは確かなようで、1604年にイエズス会が岡藩内(現在の豊後大野市朝地町)に聖堂を建設し、神父が布教する事を許可している。また、資料館の方が言うには、志賀氏と中川氏はどちらも岡城下でキリスト教の布教を行ったが、仏教徒に対する考え方が異なっていたそうだ。仏教界を敵対視していた志賀氏に対して、中川氏は仏教界にも寛容で協力関係が築けていたため、禁教令が発令した際には寺にキリシタンをかくまってもらうことができたそうだ。

さらに、現在、城下町を中心に残されているキリシタン遺物の大部分は中川氏時代のものと考えられている。サンチャゴの鐘と聖ヤコブ石像は、明治4年に城を取り壊すまで城の中に隠されていた。もし、幕府に見つかれば藩は取り潰される危険性を持っていたが、それを承知の上で城の中に隠したことは、正に『隠しキリシタン』と言えるのではないか。

サンチャゴの鐘
聖ヤコブ石像


現在
先に述べたように、竹田市ではキリスト教が普及しており、最も多い時期には8割ほどの市民がキリシタンであった。しかし、太平洋戦争時代と終戦後にさらに弾圧があったため、キリスト教は衰退してしまったそうだ。よって、現在は市内にはキリシタンは100~200人ほどしかいない。

参考文献:
竹田市キリシタン研究所・資料室「第1期 朽網氏の時代」
https://taketa.guide/christian-taketa/history/kutami/kutami.html
(2022.7.15 入手)
竹田市キリシタン研究所・資料室「第2期 志賀氏の時代」
https://taketa.guide/christian-taketa/history/shiga/shiga.html (2022.7.15 入手)
竹田市キリシタン研究所・資料室「第3期 中川氏の時代」
https://taketa.guide/christian-taketa/history/nakagawa/nakagawa.html (2022.7.15 入手)

 私は今回、資料館に行くまで、中川氏以前の時代にもキリスト教に寛容だった竹田氏の領主・藩主がいたことを知らなかったので、今回資料館でそのことを学んで驚いた。しかし、そのように長い間、キリスト教に寛容な長たちが竹田市を治めていたため、竹田市ではキリスト教が盛んに信仰されるようになったのだということがわかった。
 また、私は、そのように竹田市の長がキリスト教に寛容な人物だったことは、竹田市で禁教令下でもキリスト教弾圧の被害が小さかったことにも関係があると思った。
 私は、宗教弾圧は、国の権力者が、ある宗教を国を脅かす明らかな脅威だと考えた時に行われるものだと考える。よって、宗教弾圧が行われていても、竹田市のように、国の各地域を治める長がその宗教に寛容であったら、宗教弾圧の被害が小さくなるのではないだろうかと思う。つまり、迫害や差別をなくすためには、まず始めに”権力者やリーダー”から、自分の考えに疑いを持ち、誰に対しても柔軟な姿勢を持つようにしていくことが重要だと感じた。近年、LGBTについて差別的な発言をしている議員がいて問題になっているが、そういった国のリーダーである人ほど柔軟な姿勢をもつようにしていかないといけないのではないかと考える。

在竹田市的基督教徒的研究之中,我好奇的是為什麼基督教會在竹田市普及而不是其他地方。從資料館的訪問中,原因跟那時的領主和藩主有關。有大友宗麟歡迎了Francis Xavier進入九州開始,朽網氏讓自己和家人和家僕們260人信教並建設了豊後第一座教堂。之後,志賀氏自身對基督教的熱誠讓城內的基督教信徒急增,岡藩的信徒數是豊後裏最大的。後來的中川氏,雖然沒有他是基督徒的資料但在他身邊有很多對基督教熱心的人,所以對基督教徒是有一定的同理心的。就是因為這些領袖對於基督教的取向,在竹田市中的基督徒的避害能比其他地方少。

Yuki

・竹田市における当時の宣教師の暮らしについて


 私たちは、竹田キリシタン研究所・資料館の次に、キリシタン洞窟礼拝堂に伺った。

 当時の文献によると、天文22(1553)年頃にはすでに現・竹田市内でキリスト教が流行していたという記録が残っており、豊臣秀吉の九州平定・天下統一後も(秀吉はバテレン追放令を出していたが)豊後国岡藩の初代藩主となった中川秀成がキリシタンに寛大な姿勢を見せ、竹田は宣教師たちの布教拠点であり続けたという。
 禁教令後、宣教師たちは洞窟に隠れながら布教活動を行っていた。竹田は日本の八大布教地のひとつで、南蛮から渡来した宣教師たちの活動拠点になっていた。実はここ竹田での布教活動は、長崎や天草よりも15年ほど早かったことがわかっている。竹田市内にはキリシタンに関する『口伝』や『伝説』がたくさん残されている。長崎・天草の『隠れキリシタン』の歴史には悲しいエピソードが伴うことが多いが、竹田に伝わる伝説はどうやら少々事情が違う。当時はすでに多くのキリスト教信者が存在していたはずなのに、禁教令後の岡藩内では宗教紛争によるトラブルが起こったという記録は残されていない。表向きには、竹田でもキリシタン弾圧が行われていたはずなのだが、実は禁教令から5年後の元和3(1617)年に外国人宣教師が書いた手紙が発見されて、そこには“竹田地方では宣教師たちが洞窟に隠れながら布教活動を続けていた”と記されている。それが、竹田市にある『キリシタン洞窟礼拝堂』だ。


 どうして洞窟を作ってまで進行するし続けようとしたのだろうか。それは、当時の人たちは現代のようにテレビや携帯がなく、縋るものがなかったからである。
 現代では宗教的な考え方は薄れていっているが、宗派によって考え方はそれぞれなので、そういった人々の考え方も尊重していくことが大事であると思った。

参考文献:竹田キリシタン研究所・資料室
「TAKETA キリシタン 謎 PROJECT」
https://www.taketan.jp/christian-taketa/index.html
(2022.7.16 入手)

在豊臣秀吉統一了九州後,竹田市變成了基督教傳教士的主要據點。而在禁教令後,傳教士便藏在洞窟裏繼續傳教的活動。其實在竹田市的傳教活動比長崎和天草還要早15年開始的。跟這些地方不同,在竹田市的「隱藏基督徒」沒有很多悲傷的故事。據說雖然竹田市在表面上有打壓基督教傳教士,但是在禁教令的5年後能看到外國傳教士的書信記載着他們在竹田市的洞窟進行傳教活動。

Keiichi

・竹田市における当時の民衆の暮らしについて


日本のキリシタン史といえば、長崎だと思われがちだが、実は大分の竹田市では多くのキリシタンに関する物がある。
キリスト教が日本で広まった後、江戸幕府の禁教令のため、キリシタンは隠さなければならなかった。信者たちは自分の信仰を隠すために、すごい工夫をした。姫野一郎商店に見せてもらったのは、底に十字架を描いた茶碗と掌サイズの十字架だった。こういうものは竹田市に結構あるらしい。


他にも、資料館で見た菩薩に偽装した聖母マリア、十字架を入れた手鏡など。竹田市のキリシタンは危ないとわかっていても、積極に自分の信仰を生活に入れ込んだ。

菩薩に偽装した聖母マリア
十字架を入れた手鏡


その強い信仰の背景はその人たちが生きた時代である。キリスト教が流行していた時代は戦国時代であった。戦争が続けた時代、人はいつ亡くなるのが不明確であった。そういう不安な時代の人には生き甲斐が必要であった。また、当時の仏教は長い時間を瞑想させるから、お金のない働かねばならない一般民衆にはついていけない。そこで、信者に食べ物をあげたり、人は皆平等だという信念を伝えた、キリスト教が広まった。当時は禁教令の時代で、キリシタンへの差別はきっと強かったと思っていたが、資料館の方いわく、竹田市ではキリシタンの信徒が多いから、差別はなかったらしい。差別がなかったから竹田市のキリシタンが禁教令の下で被害されたことも他の地域より少なかったと思われる。
戦国時代であったこそ強い信念が生まれた。生活の細かいところまでキリスト教の象徴を入れ込んだ竹田市のキリシタンは皆その強い信念で命を支えたと感じた。

在江戸幕府的禁教令下日本竹田市的基督教徒需要隱藏自己的信仰。但是從以前留下來的生活用品我們可以看到,他們並沒有放棄自己的信仰而是積極地將基督教的模樣隱藏在日常生活之中。
例如有在姫野一郎商店看到的在底部藏有十字架的茶杯還有手掌大小但挺有重量的十字架。還有在資料館看到的做成像彿像的聖母瑪利亞像和有十字架的手提鏡。
明明知道這樣做是危險的,但是他們還是選擇了跟隨這個信仰。原因跟他們生活的時代有關。那是一個不斷戰爭的時代,人們都不知道自己和家人會幾時離開。就在這個社會不平的世代,基督教教導了他們人人生來都是平等的,還會提供食物給信徒。就是這樣,在竹田市的基督教徒變成了城市的大多數。而也是因為基督教的普及,即便是在禁教令下,竹田市的教徒也沒有受到歧視,也令他們在禁教令下生存了下來。

Christy

・キリシタン文化が今の竹田市にどのように残っているかについて


 昔栄えていたキリシタン文化は、現在衰退している。資料館の方の話によると、竹田市内のキリシタンは現在、約100人ほどまでに減少しており、割合的にフィリピンなどから来られている人が多いということだった。このようにフィリピンを含めた外国から竹田に来られた方は特に信仰に熱心なのだそうだ。

 しかし、現在の竹田市には、キリシタン文化が栄えていた当時に関係するものやお店が多く残っている。

 まず、ここで私がその例として挙げるのは、姫野一郎商店だ。姫野一郎商店は今から約140年前の明治時代、 姫野万治が提灯やろうそくを取り扱う姫野商店とし て創業したのがはじまりである歴史のあるお店であり、キリシタン文化の遺物も残っている。私たちが実際に見せていただいたのは、十字架を描いた茶碗と小さな十字架である。十字架は小さいながらも重みがあり、非常に綺麗だった。おちょこは中に十字が刻まれており、当時の人の信仰の深さを感じた。

 また、私たちは、お昼ご飯を「さふらんごはん」というお店でいただいたが、このお店にもキリシタン文化に関係するものが残っている。
 「さふらんごはん」のメニューは定食が主で、日によってメインが変わるそうだ。私たちが訪れた日のメインはハヤシライスだった。牛の旨味が際立つ美味しい逸品だった。ハヤシライスのまえにも豪華すぎる前菜をお出ししてもらい、食べた後には満腹感でいっぱいだった。最後の最後にはコーヒーまで無料でいただいて、非常に満足出来た。

前菜
コーヒーとデザート


 「さふらんごはん」に関係するキリシタン文化とはこの店の名前のことである。資料館の方によると、このお店の名前に入っている”サフラン”というのは、キリスト教の伝来と共に日本に持ち込まれた植物の名前だそうだ。サフランは、現在、竹田市で多く栽培されている。また、「さふらんごはん」でいただいたハヤシライスのご飯も、サフランを使って炊き上げたご飯だそうで、竹田市ならではの食事をいただくことができてとても良い経験になった。

ハヤシライス

基督教流行過的竹田市,現在只有一百人左右是基督教。但是在竹田市裏面還留有很多基督教的痕跡。例如叫做姫野一郎商店的舖頭在約140年前開店,是富有基督教文化的地方。細小但拿起時是有重量感的十字架,真的非常美麗。還有刻有十字架的茶杯,讓我感受到那時的人的深刻的信仰。

Syotaro



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