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生後3ヶ月の娘と参加したワークショップで、ファシリテーションの本質を垣間見た

先日開催した公開研究会「子どもの身体を踊る -関係性の交換を通してファシリテーションと価値創造の原点をみつめる-」の詳細なレポートを、共同企画者の臼井隆志さんが書いてくださっています。

今回の企画は0歳児でも参加できるワークショップで、しかも"大人向け"でも"子ども向け"でもなく、大人も子どもも平等に共同参加できるプログラムということで、僕は半分純粋な"参加者"として、生後3ヶ月の娘と一緒に参加してきました。途中の「子どもに抱っこされてみる」ワークなどに無理やりトライしてみたら、意外と心地よかったりして、非日常的な経験をさせてもらいました。

余談はさておき、とてもチャレンジングなプログラムで、また集団による身体パフォーマンスとしてもとても素晴らしい実践でした。じわじわと気付きが発酵するような感覚で、まだ言葉では語りつくせないところがあるのですが、ダイナミックな学びのプロセスから「ファシリテーションの本質を垣間見た」気がしたので、書き記しておきます。

正直にいえば、このワークショップが始まった前半は、進行を"無視"して走り回って騒ぎまくる子どもたちによって、ファシリテーターの"指示"はかき消され、次のワークの説明も聞き取りにくいような状況でした。主催責任者でもあった安斎は、場に渦巻く"ノイズ"に「イベントとして、成立するのだろうか?」というある種の戸惑いを覚えていました。

ところがファシリテーターの砂連尾さんや、企画者の臼井さんらは、徹底して"ノイズ"を排除しようとせず、むしろ受け入れながら、ときに場を豪快に横切る子どもたちにスポットライトをあてながら、進行されていきました。

そうしていくうちに、徐々に「今日は、コレでOKなのか」という逸脱を許容する感覚が場に広がり、"ノイズ"だったはずのものが次第に心地よく感じられるようになってきました。また同時に、積極的に大人と一緒にワークに集中する子どもたちも増えていたように思います。

場に明らかな変化が生まれてきた終盤、メインである「子どもの身体を踊る」ワーク、つまり子どもの身体の動きを真似してトレースする活動に入ったときに、場の雰囲気は一変しました。気づけば子どもは場のエネルギーを生み出す中心となっていました。多くの大人たちに「トレース」されながら、生後6ヶ月の赤ちゃんが人生で初めての「寝返り」に成功したときは、偶然とはいえ、感動すら覚えました。

開始時の戸惑いの前提にあった"イベントを成立させる"という「ものさし」は、いつのまにやら消えて無くなり、そこには、参加者の内側から衝動的に湧き上がった「別のものさし」が新たに立ち現れていて、まさに今回のテーマであった「役割を脱ぐ」ということを体感できたように思います。

たとえるならば、戸惑っていた当初は、心のどこかで砂連尾理という熟練ファシリテーターが、水面にどのような美しい波紋を起こしてくれるのか、受動的に期待していたところがあったのかもしれません。ところが、実際の水面には子どもたちが次々に起こす無数の波紋がぶつかりあう一方で、砂連尾さんや臼井さんらは、その波の上を心地良さそうにただ漂っている。ところが次第に波紋が共鳴しあって、最後にはおおきな一つのうねりに変換されていった。...そんな印象でした。

誤解のないように補足すると、これは単に「子どもがいたから」起きたことでもなく、ファシリテーターは本当に「何もしなかった」わけではありません。振り返れば、前半で強い"ノイズ"を放っていた子どものふるまいを積極的にあえて「肯定する」など、場の前提をリフレーミングするファシリテーションを意識されていたように思います。また、ワークそのものも、参加者にとって身近である「身体」の感覚が変容する、つまり「当たり前だと思っていたこと」が崩れ去るようなワークが多数仕掛けられていて、"日常"を異化しやすい環境がデザインされていました。

「自ら波を立てようとせずに、そこにいる他者の力を活かして、大きなうねりをつくる」

そんな"合気道"のような場への向き合い方に、ファシリテーションの本質を垣間見たのでした。


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