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最近、わたしがやめたこと

日本を出て、ベルリンに暮らすようになって10年近くになる。

その間にやめたことというのはたくさんあって、それはたとえばパンプスとストッキングをはいてオフィスに行くことだったり、朝にメイクをすることだったり。それから、誰の話に対してもできるだけ笑顔で相槌を打とうと試みることだったり、相手の主張に同意できないときにも曖昧な笑顔でごまかそうとすることだったりもする。

ある社会の中で「スタンダード」とされている価値観が、他の社会ではまったくそうではないことはよくあることで、だからこそそれまで過ごしていた環境から違う場所に身をおくことで、無意識に信じていた、踏襲していた価値観に疑問を抱いたり、そこから自分を解放させてあげることができる。そうした過程を経ながら、本当に自分にとって大事な価値観とは何か、自分がどうありたいのかを考えることができるのだと思う。

朝のメイクをやめる

わたしは今、ベルリンのスタートアップでソフトウェア開発者として働いているのだけど、15名近くのエンジニアチームの中では紅一点だ。ほとんどがホームオフィスでオフィスにはたまに行く程度。でも、毎日最低一度はビデオコールでチームは顔を合わせる。

今の会社で働き始めた当初は、ビデオコールをする前に眉を描いたり、リップを薄く塗ったりしていた。そんなある日、エンジニアチームの中で自分以外の誰もメイクをするというルーティンをしていないという事実にふと気づいてしまった。そして、自分だけがメイクのために数分を費やしていることが馬鹿らしく感じられてしまった。

ふと、わたしは誰にやれと言われたわけでもないのに、どうしてメイクをしているんだろうと考えた。多分それは自分自身に対してかけていた言葉。「仕事をするとき、同僚に会う時は女性は最低限メイクをしなきゃ」、そんな言葉。その前提には、メイクをすることで女性は美しくなるという考えがある。

でも本当にそうなのかな?と、まったくメイクをしていない自分の素顔を鏡でじっと見つめたとき、「このままでもいいじゃない」と思った。
それからメイクをすることは、毎朝のルーティーンではなくなった。

料理を「作ってあげる」ことをやめる

最近好きな人ができて、一緒に過ごす時間が増えてきた。当初は彼のために美味しいごはんを作りたいと思って、好きな食べ物を聞き出したり、そういったものを自分は上手く作れるのだというアピールをなんとなく会話の中に織り込んでいた。

しかし、彼は決して「作ってほしい」と言わない。そのかわりに、お互いが好きなものを見つけて、一緒に作ろうと提案する。レシピを一緒に開発しよう、味見して、改良を加えて、どんどん美味しくしていこうと言う。
わたしもそんな会話を通して、自分が彼のために美味しいものを作ってあげるよりも、一緒に美味しいものを作って、さらにはどんどん美味しくしていくプロセスの方が楽しいかもしれないと思い始める。

そして、ふと「美味しいものを作ってあげたい」の裏には、多少なりとも「作ってあげるのが正しい」という思い込みが自分にあったのではないかと感じる。瀧波ユカリさんの『「すてきな食卓」をやめた』という素敵なエッセイを読んで、そう思った。


何かがきっかけで、ずっと自分に染み付いていた価値観をすっと手放せることがある。それは自分の中のタイミングだったり、誰かとの出会いだったり、社会の大きなうねりだったり。そして、何かを手放す、やめることでまったく違う景色が見え始めることがある。
そんな新しい景色をこれからもっと見ることができれば良いなあと、そんなことを最近は思っている。

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