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中平卓馬を讃える( 「火 / 氾濫 」展について)

あらゆる事物の平等性。果物鉢も、自分の息子も、サント・ヴィクトワール山も、
同じ眼と同じ魂で描くセザンヌ。
                「シネマトグラフ覚書」ロベール・ブレッソン

アッジェの視線はひとえに直進する、だが直進ギリギリの涯に立ち上がる世界の闇その謎を今度は受け入れようというのだ。
アッジェの写真にみいればみいるほどひきずりこまれてゆくあの不安、
事物の明確で克明な輪郭、それが明確であればあるほど逆に不確かなものに
変じてゆくこれらの事物。世界そのものの不可解さ。
                       「視線のつきる涯」 中平卓馬


現在開催中(2月6日から4月7日迄)の東京国立近代美術館「中平卓馬 火 / 氾濫」展についての、感想と問題提起を述べてみる。

初めに、「中平卓馬 火/氾濫」展を見に行く予定はないという方には、
我々は「中平卓馬 火 / 氾濫」展を、万難を拝して見に行くべきとお伝えしたい。
それは一体何故なのか?ここで、中平自身の言葉を引用する。

映像の特性(対象物を直接的に捉え、それをその直接性において見る者に提示すること)への過大な期待、またそれを促進する「消費財」としての映像の氾濫、
その二つの相互作用は、徐々に、しかし確実にわれわれの映像への批判的・選択的姿勢を失わせ、映像にとらえられた事物は全て真実であるという短絡した映像崇拝をひき起こしていった。我々は映像を信じるあまり、映像に対して全く無防備な
状態に置かれてしまっている、といってもいい。
      「客観性という悪しき幻想ー松永優事件を考えるー」(1974年) 

「見る」ことがすでに築き上げられたコードに縛りつけられ、
「見る」ことが「見ない」ことと同じになっている時、
我々はカメラという非人称的な機械を介して、この世界と渡り合う。
            「先制の一撃ー見ることと読むこと」(1977年)  

ここから、この待望の「中平卓馬 火 / 氾濫」展の開催に敬意を表しつつ、
展覧会を見て、私が感じた、展示構成上の二つの問題点を指摘したい。

1、なぜ括弧付きの「日本」から出られないのか?

展覧会ホームページの冒頭が、問題を端的に示している。

日本の写真を変えた伝説的写真家。約20年ぶりの大回顧展。日本の戦後写真における転換期となった1960 年代末から70 年代半ばにかけて、実作と理論の両面において大きな足跡を記した写真家である中平卓馬(1938-2015)

これは既に、何十年も前から明らかな既成事実ではないのか?そもそも中平卓馬がいまだに、20年ぶりに回顧される「伝説的」写真家であることが、日本衰退の象徴に思えるのは私だけだろうか?すでに中平卓馬は、括弧付きの「日本」にとどまる写真家ではない。2001年Steidl社から刊行された「JAPANESE BOX」によって「PROVOKE1〜3」「来たるべき言葉のために」は紹介済みだし、2011年コムデギャルソン大阪店「Six」ギャラリーでの「キリカエ展」は同年韓国でも開催されている。その後も2018年のHKIPF 2018(香港)において中平の仕事は大々的に紹介され、その際に篠山紀信との共著「決闘写真論」は中国語に翻訳刊行されている。2018年には古書店二手舎が「PROVOKE1〜3」を完全復刊したが、このような海外からの注目(2016年「Provoke: Between Protest and Performance Photography in Japan, 1960-1975」展がオーストリア、スイス、フランス、アメリカを巡回)を反映して英語・中国語翻訳付きで刊行している。その他様々な場所で中平は紹介され、今後もされてゆくだろう。20年前の大回顧展と2024年では、写真家・中平卓馬を取り巻く環境が全く異なっているのだ。そもそも、この展覧会で最も重要な展示の一つ、1971年パリ青年ビエンナーレで発表した「サーキュレーションー日付、場所、行為」の再現展示が、2017年シカゴ美術館で展示済みなのだから、日本は既に遅れをとっていると認識するべきだ。「中平卓馬 火 / 氾濫 」展もそうなのだが、なぜ「世界の写真(芸術)史」の視点から中平卓馬を捉え位置づけるキュレーションを行わないのだろうか?この20年、全世界に積極的に中平卓馬を紹介する野心を持った日本の美術館は存在しなかった。
「中平卓馬 火 / 氾濫 」展、これは千載一遇のチャンスではないのか?

中平卓馬の経歴と活動を振り返れば明らかだが、中平は同時代を並走する
世界の写真家・映画監督や、国際情勢について多くの批評を残している。
それらを読めば、中平が自身の仕事を「日本」という枠組みで捉えた形跡はない。
2007年に刊行された「見続ける涯に火が… 批評集成1965-1977」に
批評家・浅田彰が寄せた推薦コメントの冒頭をここで引用する。

思考が視覚を批判し、視覚が思考を試練にかける。
中平卓馬の遺した仕事に見られるそのような葛藤の痕跡は、
ゴダールの仕事に勝るとも劣らぬ強度で、今もわれわれを圧倒する。

端的に言って、この様な視点が「中平卓馬 火 / 氾濫 」展には欠けている。中平が残した批評を振り返れば、中平がこの様な仕事(ゴダールを視野に捉えて)をしていた事は明白だろうし、またゴダールの盟友で在るストローブ=ユイレの仕事とも共鳴する点がある。それはまた写真についても同様であり、中平は、自身の写真を「ウジェーヌ・アジェ」や「ウォーカー・エバンズ」といった世界の写真史の中で捉えていたのだから、今展覧会で、中平卓馬を世界の写真史の中に位置付ける作業が出来ないはずはないし、今こそやるべきである。端的に「中平卓馬」「アジェ」「ウォーカー・エバンズ」の写真を並べてみれば良いのではないか。そうすれば「写真史」とは何か?を再考する契機になりうる。この様な貴重な機会に、中平が常に意識していた「ウジェーヌ・アジェ」「ウォーカー・エバンズ」の写真そのものを並列して実際に展示してみる事、これこそが美術館にしかできない重要な機能だと思うのだが。また、違う例をあげれば、1938年生まれの中平卓馬と同世代の写真家は誰だろうか?ウィリアム・エグルストンは1939年生まれで、中平卓馬と一歳違いである。エグルストンも「ウジェーヌ・アジェ」と「ウォーカー・エバンズ」から大きな影響を受けた写真家の様に思える。また1943年生まれのルイジ・ギッリ。彼も「ウジェーヌ・アジェ」と「ウォーカー・エバンズ」からの影響を公言している。同世代の傑出した写真家である彼らは、お互いに知らずして、それぞれが「アジェ」と「ウォーカー・エバンズ」に接近しているのだから、興味深い。これはただの偶然だろうか。

たしかに写真の生命は儚いものであろう。写真はその現実的な基盤を失った時、
その価値を喪失する。アジェ、エバンスの写真といえども写真であるという宿命においてそれから自由であることはできない。だがはたして、この地球上から貧困と悲しみとがなくなった時、アジェの写真をもエバンスの写真をも、人々は、ちょうど見も知らぬ曾祖父の写真を見知らぬ男のただの影として無関心に見つめる曾孫たちのように、何の感動もなく眺めることができる様になるだろうか?
                     「証拠物件」(1969年)中平卓馬

2、最重要な「5章 写真原点」の、展示数があまりに少ない

ウェブ版「美術手帖」の記事より、
「中平卓馬 火 / 氾濫 」展・担当学芸員の増田玲氏の言葉を引用すると、

「中平はその写真史的評価に比して、意外なほど『展覧会』というかたちでは紹介されてこなかった。その理由としては、最初期のものは自身で否定したためにネガが消失したこと、そのキャリアにおいて一貫して美術館を含めたシステムや権力を否定してきたこと、病で倒れる前後における活動の傾向の違いをとらえることの難しさなどが挙げられる。本展ではその難しさに向き合いながら、印刷物なども可能な限り集めて展示することで、その思想に少しでも近づければと考えた」

今回の回顧展で見る事ができる初期から晩年までの写真から明らかな事は、「病で倒れる前後における活動の傾向の違いは無いという事だ。反対に、中平卓馬ほど初期から晩年に至るまで終始一貫した制作と言動をした人物は珍しいのではないか?「プロヴォーグ」「来たるべき言葉のために」という初期の仕事を通じて紹介される機会の多い、これまでの中平卓馬像を覆すためには、1977年以後の仕事(「5章 写真原点」)の紹介が最重要だったはずなのだが、これはとても残念な事である。展覧会構成で、1章〜4章に対応するのは1964年〜1977年までの13年間であり、最終の5章が1978年〜2011年までの33年間である。この不均衡が全てを表している。いくらなんでも「新たなる凝視」「ADIEU A X」の重要な作品群と、膨大に残された晩年の縦位置カラー写真群を、5章のあの狭いスペースに纏めるのは、無理がある。1978年以降、中平の制作ペースと残された写真の数は、以前とは比較できない程上がっていたのに、なぜ展覧会の構成はそれに対応していないのだろうか?今回の展覧会は、ネガが破棄された初期キャリアの印刷物収集にスペースとエネルギーを割きすぎていた様に思う。(勿論感謝はしています。)やはり少なくとも、「新たなる凝視」「ADIEU A X」で1章、晩年の縦位置カラー写真群に1章と分けるのが妥当だった様に思う。結果的には、今回の「中平卓馬 火 / 氾濫 」展も、従来通りの中平卓馬の初期キャリアを重視した展示となり、これまでとは違う新しい中平卓馬のイメージを提示するには至らなかった様に思う。

「病で倒れる前後における活動の傾向の違い」は無いことを確認するために、
異なる時代の中平の二つのテキストを引用しよう。まずは1969年のテキスト。

カメラは世界をトータルに捉えることはできない。それにできるのはたかだか眼前に生起するばらばらの現象、全体との関係すらさだかでない羅列的な現実をただそれだけのものとして記録することしかできない。
                      「リアリティ復権」(1969年)

次は記憶喪失から9年後、1986年のテキスト。

私、毎日、"Long Hope" ならず "Short Hope" を吸い続けています。
それに即して言えば、写真、撮影行為においては、一挙に、世界総体を把握することが出来ず、日々短い希望なのだが、それに依拠して、私、世界を全的に捉えることを願いつつ、生き続けています。
                「撮影行為の自己変革に関して」(1986年)

また展覧会では、2003年に制作された「カメラになった男—写真家 中平卓馬(小原真史監督)」の上映が当然企画されていると思っていたのだが、上映が無い様でとても驚いた。これもまた、1977年以後の中平卓馬への軽視に繋がる様に思う。
ただphotographers’ galleryにて上映される様なので未見の方は、是非とも足をお運び下さい。この映画のハイライト、沖縄でのシンポジウム風景を見れば「病で倒れる前後における活動の傾向の違い」が無い事が明瞭に理解できます。

写真家・中平卓馬が77年の生涯を通じて、常に追い求めたものは、何であったか?

私、毎夕刻からフィルム現像し上げ、水洗し、乾燥し上がったフィルムを凝視し、
選出し、それから作品を造り上げています。私、それらの作品を見直していると、
とても変った、奇妙な精神的ショックさえ、感じ続けています。
だが、私、そのこと自体を考え始めると、写真と言うものは、
他の全てとは異なり、写真は、写真だけの、独特な、
奇妙な力を持っていることに気づきました。

私、自ら造り上げてきた写真に関する美意識を拠点として、撮影し続けているので在るが、突如、自らの意識を乗り越えた、全く新たな対象そのものと出合った時、
その瞬間から撮影し始めているのです。自らの意識を乗り越えた、と言うことは、
世界に関して確立していた意識を、ただ単に展開、展示してゆくことでは、
決して無く、世界そのものの持つ力を、自ら率先して引き受けて行くことが、
他ならぬ写真家で在る私の基本点なのだ。   
                「撮影行為の自己変革に関して」(1986年)

写真だけの奇妙な「力」。世界そのものの持つ「力」を、引き受けること。
中平卓馬は何故、「力」( 火 / 氾濫 )を、追い求めたのだろうか?
その事について、中平自身が、明瞭に語っている。

私を一本の視線そのものと化し、その涯で手に入れた事物と世界の不透明性、
言いかえれば事物が私の視線をはじき返し、事物はただ事物であると語り始める
その一瞬をフィルムにとどめ、それをふたたび再読する者、
それはアッジェ自身ではなかったのかと。視線の永久革命。
アッジェの写真にこのような言葉をなげかけたら、老いて背中を曲げた、
むしろみすぼらしくさえみえるあのアッジェはなんと答えるだろうか。
                     「視線のつきる涯」(1976年) 
                 
「病(記憶喪失)で倒れる前後における活動の傾向の違い」は無いどころか、
写真を撮り始める以前の東京外国語大学在学時に、「キューバ革命に参加しようとカストロに直接手紙を送った」頃から、中平卓馬の活動の傾向に何の違いもない。








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