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居場所の移ろい

「ねぇー、元気だったぁ?」
馴染みのある少し低めのはっきりした声が投げかけられる。
「元気でしたよぉ、お子さん生まれたんですね、知らなかったです」
「お仕事楽しい?全然変わらないねぇ」
そんな会話が繰り返されるあの場で、あぁ私はここに居場所があったんだなと思えた。

前職の既に離れてしまった人をメインとした、これから離れる人の送別会が開催されたのは、お盆の半ばのことだった。
その場に集まった人たちは私が一番年下で、新卒で入った会社の部署でずっと一緒にやっていた人ばかりだった。
定年退職した人、異動した人、辞めた私ともう一人、そしてこれから辞める人といった感じで、もうあの部署で働いている人はその場に一人しかいない。
懐かしさと安心感。
ここにいられてよかったなぁと思える落ち着き。
だけどそれははっきりと過去の居場所で、今現在私の居場所として機能するところではない。

居場所というものは、日常を共有できる状態かどうかが大きく左右しているように思う。
もちろん過去の居場所や繋がりはとても大切で尊いものだし、それだってものすごい財産だ。
だけど数年に一度集まるような関係は、今居場所として勘定するには少し薄すぎてしまう。
久しぶりの近況報告は、毎日のように会っている間柄だった時とは全然違う。

居場所は常に移ろい続ける。
23歳の頃に居場所として持っていたものは、27歳の今とはやっぱり少し違っていて、今居場所を得られたとしても、30歳になった時にはやっぱり同じように居場所がないと嘆いている可能性だってある。
その時その時の状況に応じて、日常を共有できるコミュニティが心を許せる状態であることは常に重要な課題となってくる。

今持っているものだって数年後には失ってしまうかもしれないけれど、それでも今持っているものに居場所を得ることは、今を幸せに生きるために必要なことだ。
その先の居場所がまたどうなるのかはわからなくても、今持った居場所が新しい居場所を連れてきてくれる可能性もある。
未来の自分にばかり期待せず、過去の自分にばかり依存せず。
今ここを生きる私の居場所を広げられないか、その試行錯誤の繰り返しの先に、きっと移り変わる居場所が門戸を開く。

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