盆踊りが下手だった話

「私踊るの上手なの」と言って踊りだした人のダンスがとても下手だったとしたら、それは間違った自己認知だ。
本人はそれで楽しいかもしれなくても、それはちゃんとわかっていないだけ。
本当は下手なのに上手だなんて、思ってはいけない。
だいたい私の考えはこういう理論が根底にあって、それがゆえに生きづらく完璧主義だとよく言われる。
でもそう思い始めたのは、いつからだっただろうか。

小学生低学年くらいの頃、近所の小さな神社でお盆のイベントがあった。
小さなやぐらが組まれて、生まれて初めての盆踊りの輪に加わる。
当時の私は、多分そこそこそうやって踊った時間が楽しかったとは思うし、子供だからそれで下手過ぎて落ち込むとかはなかったのだけど、その夜寝付けなかったがために、寝ている時に交わされる筈だった両親の会話を聞いてしまった。

記憶が曖昧なのだけど、父は初めて盆踊りをする私に「上手だねぇ、可愛いねぇ」といったことを言ってくれてたのだと思う。
寝た後であることを想定されて交わされた会話は、私がいかに踊りが下手かという内容だった。
「あんなに下手なのになんで上手だとか言うの?」と、苛立った口調で母が言う。
それに対しての父の応答は、別にそれでもわざわざ否定しなくたっていいじゃないか、みたいなやんわりしたものだった気はするのだけど、そこはあまりはっきりと覚えていない。
もう何年も経っているしこの記憶だって私の解釈でこの20年近い時間の間に物凄く脚色されている可能性はあるのだけど、私の頭に残っている盆踊りの日の出来事はこれだ。

できていないことをできていると思ってしまうことが、怖い。
下手なことを上手だと勘違いして思いあがってしまうことが、怖い。
恐怖の根底はこんなところにあるせいで、自己受容も何も怖いことを避けたら否定するしかなくなってしまう。

必要なのはきっと、自分ができているとかできていないとか関係なく楽しいことは楽しいと思えて、できていないよねと言われたことはできるようにするために頑張る、ただそれだけだ。
本当はわかっているそれがまだ、自分を守るために引いた境界線に足を捕られて、また今日もちょっと叶わない。

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