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パパ活の手前

心が不安定になっている時、現実をもっと壊してしまいたくなる。
もう元に戻せないくらいめちゃくちゃにしてしまいたいとか、空白を何かに縋って存在を許されたいとか、そんな感覚で埋め尽くされる。

巷ではパパ活が話題だ。
半年と少し前、私はパパ活の方法についてかなり念入りに調べていた。
お金が欲しいというよりも誰かにちやほやされて認められたい、それだけだった。
日常を共有できて認めてくれる誰かが、ただひたすらに欲しかった。

他にもいろんなことに手を出そうとしてきた。
道で刺し殺されてしまえばいいのにとかナンパ相手が切りつけてくれればいいのにとか、そんなどうしようもない思考で生きていた私は、救いようがないくらい現実を破滅させてしまいたかった。
そういう気持ちでいる時、人は何かを感じ取るらしい。
苦しい時にはそうでない時よりも格段と多く、道を通り過ぎる知らない人から声をかけられた。
そして私は、それにいちいち応じていた。
もうどうにでもなれ、と。

ナンパ相手と何度かご飯に行ったことも、その場で依頼されて足の匂いを嗅がれたことも、電車で連絡先を交換させられたことも、あった。
それでも私が今こうして暮らせているのは、彼らがたまたま物凄く悪い人ではなかったからなんだろう。
ナンパ相手とはご飯以上の関係にならなかったし、それ以上を無理に求められることもなかった。
今思えばこれはただ単に運が良かった。
一歩間違えれば大分重症なところに、きっと片足を突っ込んでいた。

結局パパ活のためにサイトに登録することはなかったし、知らない誰かに傷つけられることもなかった。
私は今でも空いている昼休みの時間を知らないおじさんを喜ばせることに使えたら有意義で自己承認欲求を満たせるかもしれないとか思ってしまうけれど、それでもこれが正しくないことはもうちゃんとわかる。

苦しさや虚しさを埋めるのは、若さや女を使って売り出すこととは違う。
根本的な部分で自分を認めて、誰かに傷つけて欲しいではなく誰かに傷つけられることから自分を守るために、考えられる自分でなければいけない。
これはべき論がどうこうとかではなく、そういうものだ。
壊すためではなく守るため。
「知らない誰かについていってはいけない」の意味を理解するのに、あまりに時間がかかり過ぎてしまった。

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