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私は少しも優しくない

良いところについて話しているとき、人に優しいと言ってもらえることがある。
色紙や寄せ書きなど、書くことがないからありあわせで埋めようとする際に"優しい"という言葉をいれるときだけではなく、自信が持てる点について挙げようとした時に友人からはじめに挙げられる項目がそれだったりもする。
だけど、私はちっとも優しい人ではない。
私の優しさに見える部分は見せかけで、"こうしたら人から優しい人と思ってもらえるだろうから本当は嫌だけど我慢してこうしなきゃ"が本心だ。
その証拠に、そういう例がぱっといくつも思いつく。

例えば。
友人と3人で旅行に行った際、泊まったホテルがベッド2台と補助ベッドだった。
真っ先に「私は補助ベッドじゃないベッドがいい」と言う友人と、計画を主に立ててくれた友人を前にして、「じゃあ私補助ベッドにするね」と言ったことがあった。
補助ベッドで寝たいわけではなくて、計画に労力を費やしてくれた友人を普通のベッドで寝かせるのが正解だと思ったから、そういう行動を選んだ。

それとか。
親が柄物のクリアファイルを買ってきて、私と妹に絵柄を選ばせたことがあった。
「こっちがいい」と先に言った私に、妹も「私もそっちがいい」と返事をし、それならとそのまま欲しかった方を譲った。
本当は欲しかったのはやっぱり妹のものとなったもう一つの絵柄の方で、だけどそこでそんなことを言ってしまうのは正解ではないから、仕方なくそうした。

他にも。
とにかく憂鬱感が強くて仕方なく、頼りたい気持ちと苛立ちで立つことすらままならなかった頃、仕事で疲れた恋人から私の助けてを含んだメッセージを無視して送られてきた文面に、「お疲れ様、ゆっくり休んでね」といった趣旨の返事をした。
そんなのは全く本心ではなくて、ただそれが正解だと思うから当てつけのように送っているだけだった。

私の"行動"だけ見て受け取るから、人は私を優しいと言ってくれるのだろう。
でも私は、"それが世間的に優しいと思われる正しい行動"だからそうしているだけで、そうしたくてそうしているわけではない。
人からどう思われるかが気がかりなだけで、本当はそれに傷ついたり苛立ったりをたくさんしている。
ただそれを見せないことが少しだけ上手なだけだった。

優しくなるためには、私の今の状態ではそもそも不足ばかりだ。
人は自分に余裕がある時、他人のことも考えられるようになるのだろう。
自分に余力がない状態でいると、きっと自分だけで手一杯だ。
そして私は自分で手一杯な状態にも関わらず人から優しいと思われるための行動をしようとしているから、不一致で苦しくなっている。
では、余力をつくるにはどうしたらいいか。
それはきっと、幸福度を高めることなんだろうと思う。
幸福度を高めるためには幸せを受け取れる考え方をして、幸せを拾い集めていくことが必要だ。

何で見たかは忘れてしまったけれど、人が一生に受け取る幸せと辛さの量はそんなに皆変わらないと読んだ。
それでも幸せそうに見える人と辛そうに見える人がいるのは捉え方の問題で、幸せそうに見える人は幸せを集めて暮らしていて、辛そうに見える人は辛さを集めて暮らしている。
私は辛い自分でいると自分が自分でいられるようで安心する節があって、分けるとしたら圧倒的に後者だ。
このままいても幸せにはなれないばかりか、その先真に優しくなることもできない。
自分が幸せになれないだけならそれでよくても、優しくなれないのは問題だ。

今、私は少しも優しくない。
それは辛さに呑み込まれているせいで他のことに手を回す余裕がないからで、辛さから抜け出るためには幸せを集められるようにならなければいけない。
人から向けられた暖かさを否定から捉える今の私では、幸せの袋は永遠に空っぽだ。
見せかけではなく本当に優しくなりたいと願うなら、日常に落ちている幸せを探して少しずつ、詰め込んだ袋をいっぱいにしたい。

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