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余白の容量

何もしない時間は、必要だ。
忙しそうにしている彼が息つく間もないのに会ってくれようとすると、その前に自分を整えるための休息の時間はちゃんととれているのか不安になるし、タイムラインで見受けられる疲れている先輩が無理に頑張らなければと躍起になっている姿にちゃんと休む時間をとって欲しいと心から思う。
だけどそれはきっと、適量が大切なものなのだろう。

連日の体調不良から何もする気が起きないと感じた土曜日、もう何もしたくないと思いながら何もせず一日をほぼ過ごした。
楽団の練習にも行きたくないと思いながら、先週も休んでしまったので仕方なく向かった。
それで少し無理をして参加した練習は、やっぱり体調不良で辛いのは辛いけれど、それでもそれ以上に今日何かをやったという実感をもたらしてくれたし、きちんと趣味を楽しいと思いながら参加することができていた。

余白が必要だからと言って余白にとらわれ過ぎてしまうと、今度はそれに足元を掬われてしまう。
必要な時に必要な量だけは何事にも鉄則で、過度な余白は虚しさを生む。

本当は何かをしたいのに何をしたらいいかわからなくて苦しい時、必要なのは余白ではなくて何かをするという行為や時間の過ごし方だ。
余白が必要だからと自分に言い聞かせて意図的に必要ではない余白をつくることは、時として無駄なように思えてしまうことがある。
あとから見返してあの余白のおかげでゆっくりと休息できてよかったなと思えるか、あの時どうして何かやろうと思いながら何もやれなかったのだろうと感じるか、その答えは後にならないとわからないことがとても厄介な部分なのだろう。

余白の容量を少なく見積もりすぎると、楽しいことを楽しいと思うことすらできなくなってしまう。
それは人によって必要な大きさも違うし、自分で試しながら計っていかなければいけない。
長く生きれば次第に自分の扱い方がわかってきて、メジャーで見積もりを立てながら計画をつくっていけるようになるのだろうか。

同じことをしていても疲れ度合いは時によって違うし、余白なんてなくてもこれをしたい、むしろこれをするために時間を過ごしてきている、と思うことだってきっとある。
だけど疲れている状態で一日に2個も3個も予定を入れると、それがどの程度大変だったかなんて関係なく、とにかく疲弊してしまうことだってある。

余白の容量を自分と相談し続けながら、必要な分を必要な時に。
それが必要な時にできる状態と、必要でない時に余白を埋める何かを、両方持って置けると強くなれるかもしれない。

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