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だって目指すものが違うから

最近、人の頑張っている姿や成功・良かったことを、これまでよりもきちんと心から素直に喜べる状態に近づけたように思う。
裏を返せば、これまでは心から喜べることはほぼなかった。
頑張れていない自分との対比や妬ましさで対局な感情を抱いてしまうことすら多かった。
なんとなく社会的に良しとされているものが全部欲しかったからこそ、なんとなくの漠然としたそれを手にしているものはみんな羨ましくて、誰かのいいことにはひたすら負けを感じて自分を追い込むためのツールのようになっていた。
それでも最近、そういう感覚が大分減ったように思える。

そのきっかけは、自分の目指すものと他人の目指すものが違うと、切り分けて認識できるようになったことだと思う。
全部は手に入らないのに欲しいものが漠然としていたからこそ、全部が羨望と嫉妬の対象となってしまっていた。
だから、自分の欲しいものが少しずつ狭まってきて、「これはすごいけど自分はこれが欲しいわけではない」と思えるようになったことで、素直に相手の喜びを共有できるようになった。
生まれ持った資質が違う個々人は、同じものを目指すわけではないし同じものを欲しがっているわけでもない。

漠然とした"社会的になんとなくいいものすべて"が、ある程度曖昧なままでも"自分に即したこんな感じのもの"を私は欲しいなと認識できるようになることで、それと違った相手のいいものを受け止められるようになってくる。
これは相手と欲しいものが同じだった場合はあまり適用できないかもしれないけれど、対象を狭めて自分が求めているものの解像度が上がれば上がるほど、欲しいものが人と違うと思える可能性が高まる。

いいものはだいたい誰にとってもいいものだけど、自分にとって必要か・欲しいかと言われたらきっと別問題だ。
できる限り誰かの幸せや喜びを一緒に分かち合いたいからこそ、自分が欲しいものや必要なことを少しずつでも明確にしたい。

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