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私結局本当に、話せるようになりたいんだったっけ

先週、気になっていたイベントにいくつか参加して、また話せない自分に打ちのめされた。
ただ話を聞いているだけならとても関心をもってやれているものの、いざワークショップだディスカッションだとなってしまうと、その場から立ち去りたくなってしまう。
自己紹介をしたその場で自分の実際の状況に当てはめて考えたことを発表しあいましょうとか、今日ここに来た理由を話しましょうとか。
構成上必要だったり、自分で考えて言葉にしてもらいその場をより深い学びの場とする意図があったりすることはわかっている。
だけど本当に、慣れていない複数人と話をすることが、ありえないくらいにできないのだ。

これまでのコーチングなどで、話せるようになりたいか・そのためにはどうしたらいいか、ということは何度も扱ってはやりたくないけどやらなくてはいけないという結論に至って、相反していると何度も言われながらなんとか場数をこなすしかないという考えのもと、話せない場数だけ踏み続けている。
話せないままの場数をいくつ踏んでも、結局今までと何も変わっていないし、相変わらず本当にやりたくなくて仕方がない。
そういう機会がある度、どうか自分の話さなくてはいけないターンがくる前にこの場の話さなくてはいけない時間が過ぎ去りますようにと願うばかりだ。

伝えたいこともないし、できることなら一切言葉を発さずに済ませたい。
私は私で一人で後からゆっくり考えるから、どうかこの場で話させずにおいておいてほしい。
そんなことばかり思う一方で、相手の立場に立って物事を考えたら、やっぱり話を積極的にする人が求められている。
主催者としても、同じ参加者からみても。
話をする場で話すことから逃げようとすることは、非協力的で相手にこうしてあげたいという気持ちが見えず、自分本位であるともとれる。
やりたい・やりたくないとか、嫌だ・逃げたいとか関係なく、単純に迷惑になってしまう。

こういうことを一通り考えてなお、私はきっと次も明らかに話せない未来は目に見えている。
だからもう一旦、話さなければ・話すようにならなければと躍起になることをやめることにした。
ただもう諦めてやめてしまうのではなくて、伝えたい・こうすることで喜んでもらいたいという感覚が湧き出てくるための準備に取り掛かることにした。
そうしたら自然と、話したいと思うようになることを期待して。

最近、論理的思考のフレームのようなものを勉強し始めた。
私はOL5年目だけど、稼ぐ側でもなくそういうことと縁のない生活をずっと続けてきたせいで、考え方のフレームについて知識すらないことに気が付いた。
論理の切り分けや展開の仕方・作りこみ方について学ぶことは純粋に楽しく、もっと学びたいと心から思い無理して本心に蓋をしてといった感覚もなく取り組めている。
こういう考え方や切り口を学ぶことで、伝えたいことは自ずと見えてくるかもしれないと、なんとなく思えるようになってきた。
だから今は学びたいと思えるこっちをしっかり深めて、その結果として話せるようになれるかもしれないと、ひとまず楽観視してみようと思っている。

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