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伝え方って、難しい

「うーん、それは言わない方がいいようになりたいの?」
「そんなことない、言わないで飲み込むのは違うし」
終電間際の都心のカフェで、そんなことを曖昧に話し続ける。
おかしいと思うことはおかしいと声を即座に挙げてしまう彼はコミュニケーションに自信を持っていて、普段そんな台詞を聞くことはあまりない。
ただ、たまに出てくるエピソードに、わざと煽る言い方をしてしまったとか、穏便に進めるためのクッションがおけていなかったとか、そんなことはいくつかやっぱりあるようだった。

「ちょっと一言言ってくれたらそれでわかるのに、なんかもう本当に責められてるように感じた」
「あの人はあぁいう人だから、そこまで言わなくてもいいのにねぇ」
物事を悪い方に捉えがちな彼女は、傍を通りがかったはっきりものを言う人の言葉にどんよりとした表情を見せる。
注意の一言に添えられた言葉たちは、必要以上に相手を傷つけていく。

身に覚えがある。
私は人にあまり何かを言わないし言えない側だけどあの時の彼女と同じようなことを経験したし、頑張って何かを言うためには想像力ややさしさを前提条件としてはっきりもっていないと、頑張ってやった結果自分のなりたくない誰かになってしまう。

人に何かを言うことが別に苦でない人でも、上手に相違や違和感を伝えたり相手を傷つけないように指摘をしたりということはおそらく難しい。
相手次第ではあっても、そういう違いに関する言葉はデリケートで、少し間違えてしまえば誰かを過剰に傷つけてしまう。
自分が全然気にしなくても、相手にとってはものすごく気になることかもしれない。
大したことじゃないと思って軽く伝えた注意は、誰かの砦を崩してしまうかもしれない。

全てを想像することはできないし、全てを気にしないこともできない。
伝える側はできる限り相手の持っている背景や価値観に想像力を働かせることが必要だし、伝えられる側はできる限り事実を事実として受け止めて過剰に一般化して傷つきすぎたり怒ったりしない姿勢が必要だ。
だけどそういうことが必要なシーンは大抵お互い余裕がある状態ではなくて、過度に傷つけ過剰に傷つく構造になりがちなのだと思う。

悪意はあるにしてもないにしても、言い方がどうであれ。
指摘を受けた物事や異議を唱えられたことに対して、自分はそれを受け入れるのか・違うと思うのか・交渉するのか、姿勢を明確にして次から気を付けたり次によりよい関係をつくるために動いたり、必要なのは本来であればそれだけだ。
だけど、言葉の奥に悪意を含ませたり、文脈から隠れた意図を読み込んでこういう感情をこの人に味わってほしいとか考えてしまったり、そういう苛立ちを相手にわざと伝播させようとしてしまうことは、私にだってある。
気にしない姿勢を見せられると、意図が伝わっていなくい相手を無神経に感じて、余計こちらは苛立ちを募らせる。
これは結局、言えなくて婉曲的な表現で相手に読み取ってもらうことを、滅茶苦茶に組み込んでいるだけ。

言葉にしないと伝わらないし、伝えないと相手はわかってくれない。
じゃあどう伝えるか。
伝えないという選択肢はなくて、どこかで誰かが伝えないと溝や我慢は深まっていくばかりだ。
大人になればなるほど、誰かが代わりに伝えてあげるよって言ってくれていたことも、私が今度は伝えてあげるよって言える状態になっていかなくてはいけない。
その前にまず、自分のことだけでも最低限伝えられないと、誰かの代わりにしなやかに物事を伝えることなんてできない。

伝えないという選択肢はなくて、伝えてきちんとお互いが幸せに生きられるようにするために。
想像力と事実を事実として受け止める姿勢は、人生の重要な要素だ。
生き方全般に通じる大切な何かは、結構共通しているものかもしれない。
それはとっても難しいことだけど、頑張って手に入れたらみんな幸せになれるくらい、難易度が高いからこそ魔法が強い。

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